
説教要旨
◇2023年3月19日 ルカ22:31-46 「あなたのために祈った」
サタンは主の弟子たちを麦のもみ殻のように無価値なる者、失格者と言わんがばかりに挑戦を仕掛けます。「獄にも、死に至るまでも一緒に行く」ということが本当にできるかどうかが、合否の分かれ目だったのかもしれません。しかしペテロはこの夜の明けきらぬ間に三度も主を知らないと、縁切りの発言をしてしまいます。主は罪人として引かれて行き、弟子たちの命にさえ危険が及ぶかもしれない状況でした。
今日の個所では、信仰者の徹底的無力が語られています。力強い熱意もむなしく、決意も崩れ落ちます。もみ殻のように無価値なものと判断され、これではもう私たちの信仰は無きものと裁かれてもしかるべき大失敗の中で、失敗者、落伍者との烙印を押そうと戦いを仕掛けてくるサタンの力の畳みかけてくる中で、私たちの信仰が吹き消されそうになるその時、主の祈りの声が聞こえてきます。
「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」
祈りです。所詮は弱く、無力な私たちは弱いまま、祈りをもって主の御前に出ます。私たちの決意も力もむなしい、その圧倒的な猛威の中、私たちには祈りがあります。主が誘惑を吹き飛ばしてそこから立ち上がられたように、私たちも祈りによって進むのです。
◇2023年3月12日 ルカ22:24-30 「わたしは給仕をする者」
ルカ22章。祭司長や律法学者がどうやって民衆に影響力のあるイエス様を殺めるのかを相談していた時でした。
木曜日の夜、ユダヤの暦では金曜日に日付が変わり、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日となりました。主は食卓を整え、弟子の給仕役となられました。そしてその食事とは、ご自分の身体と血の記念のためのパンとぶどう酒でした。
「人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」と主が語られると、弟子たちはいったい誰の事かと議論しました。そして主が去っていくことを聞けば、弟子たちの間で誰が跡目を取るのかと議論しました。主が過越のいけにえの小羊となってその身をささげて民を救おうとしているのに、彼らはそれぞれが自分の事しか考えていないように見えます。
「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。」主は偉い者とはなられず、進んで低き者となられます。「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たち」。果たして本当にそうだったのでしょうか。そしてその日、主は血潮を流して木にかけられ、まさしく世の罪を取り除きさばきを過越させるいけにえとなられました。主は箸にも棒にもかからない祭司、律法学者、民衆、弟子たちのためにその身をささげて下さいました。
◇2023年3月5日 ルカ21:1-19 「わたしの名のゆえに」
受難節の時。十字架に向かうイエス様のお姿です。レプタ銅貨を二つささげた貧しいやもめが登場します。イエス様はそれがその女性の生活費のすべてであることを見抜かれます。とはいえこれはすずめ1羽の半分にしかならないお金でした。「1アサリオンで雀2羽」というお話がマタイ10章にありましたが、一羽では商品価値がなく、二羽セットでなければ商品価値のないその雀の一羽も買えない女性がいたということが驚きです。その100円ほどの献金でしたが、それで過ごしていくとは、どんな不安があったのでしょうか。どうして周りの人たちはそんな貧しい人を助けることがなかったのでしょうか。それにしても、この女性はそのなけなしのお金を神様にささげました。
神殿は見事な石と奉献物で飾られていました。そのような中、この女性のレプタ銅貨も、その生活の困窮も、人々からは見向きもされませんでした。
しかしイエス様はこの壮麗な神殿が粉々に破壊される時のことを語られました。人はついぞ目に見えるものに心捕らわれ、目に見えない大切なものを見落とします。「主の御名のゆえに」、イエス様の進まれた道のゆえに生き、イエス様を証しするということ。これが真の礼拝の姿です。奉仕は小さくても、持てる限りのものを用いて、ささげて、仕えること。この銅貨をこそ主は喜び、お受け入れになられ、迫害の中にも共におられ、助けて導いて下さるのです。
◇2023年2月26日 黙示録22:1-21 「主イエスよ、きたりませ」
「神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」との平安に満ちた神の都での様子が続きます。
「水晶のように輝いているいのちの水の川があり、川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす」との心安らかな世界がそこにはあります。
「のろわるべきものは、もはや何ひとつなく、夜ももはや」ありません。あかりは要りません。主なる神が彼らを照らす明かりだからです。
そしてこの世界の到来は「すぐに起こ」り、主イエス様は「すぐに来る」と繰り返し語られています。
それは信頼できることであり、この預言の言葉の書は神様からの尊いメッセージの贈り物であると聖書には書かれています。「すぐに来る」お方、「アルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終り」である方、始めから終わりまで、すべてをお見通しのお方を前にして、いのちの木に預かる特権を得て、都に入るため、悪しき業を捨てて自分の着物を洗うようにと勧められます。黙示録3章に、「あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。」との言葉を思い出します。私たちは「すぐに来る」新たな世界のために備え、また証しする者であり続けたいと願います。
◇2023年2月19日 黙示録21:1-27 「もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない」
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。もはや海もない。海は古代人にとっては嵐による危険など恐怖の象徴であり、その奥底に悪の根源のある所とも考えられていました。その海ももはやなく、死も悲しみも叫びも痛みも、もはやなく、先のものももはやないと聖書は語ります。
窮状と困難がありましたが、今は「渇いている者には値なしに命の泉から飲ませよう」と語って下さる方の世となりました。「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」と言って下さるのです。
聖都エルサレムは夫のために着飾った花嫁のように美しい姿で天から降り、ヨハネはその姿を見ました。これは神様の栄光に輝く教会の姿です。
その輝きはきらめく宝石のようでした。ビリピ2章にはこうあります。
「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、…星のようにこの世に輝いている。」
「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。」
この完全な神の都にて、暗闇を経験することなく、神様のご臨在の光に照らされ宝石のように輝く栄光の生活が私たちを待っています。
◇2023年2月12日 黙示録20:1-15 「いのちの書に名がしるされている」
イエス様がルカ12章の所でこう語られたことを思います。「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」
今日の黙示録20章ではついに最後の裁きが記されます。第二の死、火と硫黄との池に投げ込まれること。このことを恐れを抱かずに読むことが出来るでしょうか。
「これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。…このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
このいのちの書には、人のすべての行状と、救われるべき名が記されているようです。
「全てのしわざ」が明らかにされて腹の痛まない人は誰一人いないでしょう。しかし、そのしわざにも関わらず、私の名がいのちの書に記されていて、しわざに関わらず赦しと命が与えられるということを思い、ただただ小羊なる主による救いに感謝します。
◇2023年2月5日 黙示録19:1-21 「イエスのあかしは、すなわち預言の霊」
今日も天上の集まりから声が響きます。「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のもの、そのさばきは、真実で正しい」、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう」、「白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。」と、様々に神様とイエス様をあがめ、証しする言葉が続きます。
「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(黙1:9)と語ったヨハネに、「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」との天使の声がありました。
このお方は「忠実で真実な者」、「王の王、主の主」、ご自分の血で染めた衣を着た贖い主であり、その尊い血潮で民をきよめ、民を神の花嫁として婚宴にお迎えくださる方です。
「光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許され」る神の民。しかし、「王の王、主の主」に逆らう者達の行く末は、空の鳥たちの餌食になる大宴会です。迫害されて死んでいった神の僕たちの血の報復はこうしてなされます。
「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」アーメン、ハレルヤ、主を賛美いたします。
◇2023年1月29日 黙示録18:1-24 「一瞬にして無に帰してしまった」
地上に傲慢をもって富み栄える権力組織大バビロンの罪はついに天に達し、裁きの時が来ました。その栄光は永遠に続くかのように思われましたが、その時は一瞬にして到来しました。あらゆる高価なものを極めつくし、あふれるほどの豪奢の時は過ぎ、人の命さえ商っていたその異常さは過ぎ果て、裁きをなさる力強い方は一日にして、一瞬にしてそれを焼き滅ぼされました。その町と深い取引の関係にあった商人たちは一様に距離を置いて佇みその滅亡を見て、泣いて悲しみました。「これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは。」
人を奴隷とし、その命を注いででも自分たちの栄華を求める人たちの滅びは一瞬にしてやって来ます。その成し遂げたものもまた幻のようです。
神様はその民にこう言われます。「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」 強大な影響力をもってそっと忍び寄る誘惑を私たちは退け、力強い御業のもとに悪しき汚れた者に対して裁きをなして地に明るさを取り戻して下さる方、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血に報いて下さり、悪の世を二度と見ず、思い出されもしない程に焼き尽くしてくださる神様を畏れつつ進んでまいりましょう。
「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」1ペテロ5章
◇2023年1月22日 ヨハネの黙示録17:1-18 「小羊と共にいる召された者」
前章の最後の所で、神は大バビロンに対する裁きをなされたとありましたが、17-18章にはその詳細が記されます。大バビロンとは、ローマによって代表される地上の支配権や文化の象徴です。この神に敵対し、神を汚す支配者たちは、大淫婦と呼ばれ、これは21章9節の「小羊の妻なる花嫁」と対照的な存在です。
大淫婦、すなわちローマは大いなる川ユーフラテスに位置し栄えたバビロンのように栄え、自らの力に酔い、神の名を汚し、道徳的に腐敗し、聖徒の血を流し続けました。
獣は昔はいたが、今はおらず、底知らぬところから昇って来るとありますが、これは投げ落とされながらもまた戻ってきた悪魔(12:13-14)を指しますが、ついに滅びに至ります。これも1章4節の「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかた(主キリスト)」との対照をなしています。
ローマの皇帝は変わり、「聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれ」、「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」とあります。さしもの大国も、内部分裂によって崩壊していきます。「神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされ」ます。悪が栄えてもついには御言葉が成就します。復活の主を仰ぎ、慰めを頂き進みましょう。
◇2023年1月15日 黙示録16:1-21 「あなたは正しい方」
川が血に、地は暗くなり、かえるが現れ、雹が降り…、出エジプトの主の御業と、黙示録の先の七つのラッパの出来事が思い出されます。しかし今回は一国のみならず世界に、三分の一のみならず全体に及ぶ災厄が描かれています。
「地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた」御使い、「火を支配する権威を持っている」御使いに並び、「水をつかさどる御使」が登場しました。世界を創造され、非常に良いと仰せられた神様はどんなにか御使いを用いてずっとずっとご配慮をもって世を統べ治めて来られたことでしょう。しかし弟アベルの血を地に流したカインのように、神の聖徒と預言者たちの血を流した者たちのため、主は川の水を血に変えて血を飲ませなさいます。それは当然のこと、昔も今も生き続ける方、あなたは良く、正しく、汚れのない純粋で真実なるお方、あなたのお定めは正しいとの水を司る御使いの声が心に迫ります。
そのように激しい怒りの鉢を次々と投じられるに仕方のない人たちは(私たちも胸に手を当て、ただイエス様の贖いに感謝します)は、自らの罪過を棚に上げ、災厄のゆえに「神様を呪い、侮辱し、悔い改めることをしなかった」という御言葉に神様の悲しみを感じます。裁きによる災害の中、人はそれを起こるべき事と思うのか、不当なことと思うのか。胸に手を当てて考えるのか、神を呪うのか、私はどうなのかと心を探られるのです。
◇2023年1月8日 ルカ2:41-52 「イエスの賢さやその答に驚嘆していた」
「理解力」というものは大切なものだと痛感させられます。
明日は成人の日の祝日です。日本では昨年4月より18歳から成人となりました。判断力があり、大人として認められるのが成人です。ユダヤ人社会では、男子が13歳、女子が12歳で成人です。
イエス様はこの時12歳。毎年の過越しのエルサレム上りですから、成人になる前の最後の都上りでした。「少年イエス」と書かれていますね。
しかし少年イエス様の理解力、洞察力、知識や賢さは、エルサレムの神殿にいた教師たちが非常に驚愕するほどのものでした。この時イエス様は聞いたり質問したりされましたが、ご自分の意見を話されたとしたら後に起こったような論争となったのでしょうか。しかしイエス様の時はまだ満ちてはいませんでした。父母は心配で食べ物ものどを通らぬまま1日の旅路を3日かけて必死にイエス様を探してついに神殿まで戻ってきました。どうしてこんなことをしたのかと問う気持ちは十分に分かります。しかしイエス様はどうして探したのですか。私は父の家にいなければならないと言われました。両親はこの言葉を理解することが出来ませんでした。教師たちも理解できなかったでしょう。こんな風にして、神様の知恵深い御業は深く深く進行していきます。母マリアは今回も、心に大事に蓄えました。土が種を宿すように、時がかかり発芽するまでの間、蓄え待つ、判断を焦らない、これが知恵に生きる姿勢なのでしょうか。
◇2023年1月1日 ルカ2:21-40 「わたしの目が今あなたの救いを見た」
新年です。昨年は疾病と戦争、物価高など悩み多き年でした。今年は平和と慰めに満ちた年になってほしいと願います。
「律法に(より)」という言葉が5回。御言葉のとおりに進む生活の土台がここにあります。
シメオンは、信仰深く、国のために祈っていました。「聖霊が」と3回。ここにも聖書を愛し、宮での礼拝を愛し、祈り続ける人がおり、聖霊によって生活していました。彼は「死を見ない 救い主キリストを見るまでは」と、神によって知らされていました。救い主キリストを見るということは救いを得るということですから、彼は死なないということです。シメオンもアンナも高齢でした。アンナは84歳。現代で言えば驚くべき年齢ではないかも知れませんが、2000年前にすれば、他の人の2倍も3倍も(4倍も)生きたということになります。あの人たちは死なない人なのではないかと噂されていたかも知れません。彼らの生き方は、「神中心」の生き方、宮を離れずに夜も昼も断食して祈り、神を礼拝する生活でした。食べることすら忘れて神と世とのために生きる。彼らには神様の啓示がありました。聖霊の満たしがありました。
「倒れさせたり立ち上がらせたりする」救いの御子ご自身が倒れ、死に、よみに降り、復活されるその御業の中に、人の悔い改めと救いがあります。世を挙げての反対を突き付けられ、心が剣に刺し通されるように悲しみに痛みますが、主は勝利されたのです。