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説教要旨(2021年-2023年)

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◇2023年12月31日 ヨハネ3:16-21 「行いは神にあってなされた」
クリスマスの礼拝の一つ一つの出来事が思い出されます。
「これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導くであろう。」
夜半に現れた羊飼いたちに告げられた良い知らせと光、そして天の賛美はどれほど素晴らしいものだったでしょうか。
神は光です。神はあわれみであり、愛であり、神様は赦しに富んでおられます。
神様は私たちが一人も滅びることを望まず、永遠に生きることを望まれます。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える…あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」と語られます。
神様は私たちを光の子とされ、「あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(ビリピ2:15)
とあるように、主の赦しと愛の光によって弱さを乗り越えて輝く者として下さいました。
暗闇を愛することなく、自分のことを追求するのではなくて神の国と義と真理とを追求し、光に進み出て、神様の御業を拝したいのです。「真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが明らかにされるため」にです。

◇2023年12月24日 ルカ2:8-20 「何もかも自分たちに語られたとおり」
クリスマスおめでとうございます。
「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」
「神には、なんでもできないことはありません」。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」
「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」
「ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。
…わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すため」
「わたしたちを敵の手から救い出し、生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださる…これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、
暗黒と死の陰とに住む者を照し、わたしたちの足を平和の道へ導く」
「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。」
クリスマスのメッセージはすべて実現しました。御言葉は私たちの人生にも実現します。

 

◇2023年12月17日 ルカ1:57-79 「神のあわれみ深いみこころ」
 先週私たちは、「恵まれた人、おめでとう、主があなたと共におられます」との言葉を聞き、「恐れるな、あなたは神から恵みをいただいている」との励ましの言葉を受けました。
「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。」「神には、なんでもできないことはありません。」と聞かされて、「どうしてそんなことがあり得ましょう」との、神様の御心の決して私たちの考えの及ばない所にあったとしても、意を決して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と応答する者の幸いを味わいました。
「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」
そうです。私たちの人生に神様が共におられ、力強いお方が私たちに大きな事をして下さる、人知を超えた偉大なことを成してくださるということは、なんと幸いなことでしょう。
主は、あわれみをお忘れにならず、その僕を助けて下さいます。敵の手、憎む者の手、暗黒と死の陰、罪と死から私たちを助け出す神様の深い深い憐れみ、神様の顧みと贖いとによって朝のあけぼのの光が立ち昇るのです。
神様はその深い深いお心の奥底から憐れみの愛に満ち、私たちの人生を天からの光で満たしてくださいます。私たちはきよく正しく恐れなく主に仕えることが出来るのです。

 

◇2023年12月10日 ルカ1:26-38 「神に出来ないことは何もない」
クリスマスの時、どうして私たちは心が躍るのでしょうか。子供の時の数々の包装紙にくるまれたプレゼントの記憶のゆえでしょうか。
クリスマスはイエス様の誕生日。主人公はイエス様です。そして、クリスマスは十字架にかかって死ぬために生まれたイエス様の誕生日です。
それはそれは神様からの大きな贈り物が捧げられた日、それがイエス様のお誕生日です。
「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」
「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」
「神には、なんでもできないことはありません」
「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救主なる神をたたえます。」
「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」
「主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、…とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」
これらがあふれるクリスマスの祝福です。

神様は私たちを見ておられます。そして私たちに恐れるな、恵みを授けると語られるのです。神にはできないことはない。必ず成就する。力ある方が私に大きな事をして下さった時なのです。

◇2023年12月3日 1ペテロ1:3-9 「霊的遺産を残す」 (アーニー先生)
神は、人々に福音を伝えるという預言的な使命を与えられました。私たちは宣教の教会であり、世界に宣教するという召命とビジョンを持っています。宣教師から生み出された教会。それゆえ、私たちが生まれた時から、宣教は私たちの血とDNAの中にありました。
私たちは霊的な息子や娘を育てて、宣教教会を建て、国や民族を所有するように召されています。
伝道教会とは、伝道の心とビジョンを持って教会を建てる教会です。失われた人々、救われていない人々、主を知らない人々に手を差し伸べ、教え、弟子とするのです。
私たちは暗闇の生活から呼び出され、主の救いの光の中を歩み、生きる時、私たちは異なる、新たな人生と文化へと召し出されたのです。
「せめて自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」
ということではありません。
イエス様の復活のおかげで、私たちは生きる希望によって新しい命を得ました。
イエス様は、永遠の命と呼ばれる、決して滅びることのない、損なわれることのない、色あせることのない遺産を私たちに与えてくださるのです。
私たちがキリストと、キリストが私たちのためにしてくださったことに信仰を置くとき、私たちは喜びに満たされます。私たちは魂の救いという霊的遺産を手に入れたのです!!

 

◇2023年11月26日 ルカ2:1-18 「すべての民に与えられる大きな喜び」(リン先生)
素晴らしい世界の中を私たちは日々出入りするのです
喜びをもって平和のうちに出入りするのです
主を礼拝するために。
天国の天使たちとともに主を礼拝するために。
1時間だけではない、2時間どころか 90年をはるかに超えて、
それは 永遠に!
私たちがイエスを主とした瞬間、私たちは次のように生き始める。
片足は地上に、もう片足は天に立脚して。
私たちは神に力を与えられた人生を生きるのです。
神は私たちを見ておられます。
神は私たちと共におられます。
神は私たちを助けてくださいます。
時には自然に、またある時には超自然的に。
私はあなたを励ますためにこうお話します、
神があなたを呼んでいると感じるなら
神があなたを呼んでおられると感じるなら、たとえあなたが信仰に踏み出すのに十分でないと感じても、
あるいは資格がないと感じても、神があなたを用いてくださるようにと、ただお任せしましょう。
神はあなたを通して輝かしいことをしてくださるでしょう。
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。

 

◇2023年11月19日 ルカ1:5-25 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め」
アドベント(待降節)が始まろうとしています。
「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」とへブル10章36節にありますが、忍耐の大切さは先ごろ読みましたヤコブ書にも書いてありました。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」
信仰が試され、信仰が鍛え上げられ、どんなに苦しい状況の中で、踏んだり蹴ったりの目に遭っても、泣きっ面に蜂の状況であっても、希望の灯がかき消される嵐のような中にあっても、信仰がなくならず、信仰を持っているからこそ忍耐できるという局面を通らされれば通らされるほど、私たちの信仰も忍耐も増し加わるのです。私たちに必要欠くべからざるものは、信仰と希望です。どうして信じ、希望を抱くことが出来るかといえば、与えられ、注がれている神様の愛のゆえです。
ザカリヤは妻の懐胎の知らせに、何によってそれを見出すことが出来ようか、私も妻も年老いているのに、と言いました。彼は自分の側からしか物事を考えられませんでした。
事は、人の理解をはるかに超えたところで成りました。妻エリサベツは、「主は今私にこのように目を留めて下さった」と歓喜に踊るのです。主の良き知らせは成就します。

 

◇2023年11月12日 ヤコブ5:7-20 「お互のために祈りなさい」
「主の来臨が近づいているから耐え忍びなさい」。主の時が来れば、私たちには永遠の安息が与えられます。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」黙示録21章
だから、「耐え忍びなさい。心を強くし、互いに不平を言いあってはならない。」
いよいよ困難が極まる時、苦しみを耐え忍び、疲れ果てる時、私たちは互いに不平を言い合うことにもなります。ヤコブはその時こそ「互いに祈り合う」時だと諭します。
「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。」
人は皆罪を犯す者です。そして私たちの肉体は病にも苦しみます。私たちの弱さの中で、私たちが出来ることは、互いに支え合い、助け合い、祈り合うことです。病の時の祈り、痛みに寄り添う祈り、罪にさまよう時、互いに罪を告白し合って祈り合うこと。こうして義(神様との正しい関係)に生きる時、この御言葉の真実を悟ることが出来ます。「主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである」


◇2023年11月5日 ヤコブ5:1-6 「すでに万軍の主の耳に達している」
マタイ6章の、「主の祈り」の後のイエス様のお話のことが思い起こされます。断食をするときには人知れず。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さる」。「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 あなたの宝のある所には、心もあるから」
またルカ16章の金持ちとラザロの話も思い出されます。
ラザロは貧しく、全身をできものが覆いつくし、金持ちの門前で、食卓からのおこぼれで飢えをしのごうとしていました。犬が来て彼のできものをなめていました。この犬とは、貧しいながらの彼のわずかの食べ物を分け合っていたのでしょうか。
しかし門の中にいる豪勢に過ごしている金持ちは、ごく自分の家の門前でいのちのともし火が消えようとしている人の事など一向に構いません。彼の関心事は自分の富の事ばかりで、そこに心が奪われています。そして主は隠れた人の心の内をすべてご存じです。
今日の個所でも富を誇る人が登場します。しかしその蓄えた宝には錆が生じて毒を及ぼす、なぜならばその富は使用者の未払い賃金の上に成り立っているから、労働者の叫びは主の耳に届いているとあります。私たちの心はどこに向いているでしょうか。進んで愛する御子の犠牲をもって私たちを富む者として下さった神様に向き、困窮の友に心が向かっているのでしょうか。

 

◇2023年10月29日 へブル4:11-17 「あなたがたは誇り高ぶっている」
人にはそれぞれ価値判断の物差しがあり、「これだけは誰が何といおうと自分が正しい、譲れない」という思いがあるようです。互いにそういう思いでいる時、言い争いや戦いが起こるように思います。それは旧約聖書の士師記の最後の言葉にも表れています。
「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。」
神の民イスラエルには神様の目にかなうことを求めるという信仰が欠如していました。ですから人はてんでバラバラでした。しかし人は神様の思いを謙虚に求めるのならば、その御心のうちに一つになれるのです。歴代誌下16章にこうある通りです。
「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。」
自分こそが正しい。そう確信をもって人生の難局に立ち向かうことは頼もしいことです。しかし私たちは誤りある弱き人間です。私たちは祈り求めて神様のお導きとお力を頂けるとしたら、どうしてそれにすがることを求めないことがあるでしょうか。私たちは自分が世の中の裁判官であり、人を責める資格があると考える前に、神様の権威と知恵と力のもとに身をかがめ、将来のこと、未だ何も分からない未来のことを主の前に祈り求めながら進むときに、恐れも驕りもなく、なすべきことを果たしつつ力強く人生を進むことが出来るのではないでしょうか。

 

◇2023年10月22日 ヤコブ4:1-10 「主のみまえにへりくだれ」
時には厳しく思える言葉も、謙遜に受け入れられるのなら、それは良薬として心身に働くということがあります。
人の心は、人のあくなき欲望のゆえに、汚れて神様の御心を現すところではなくなってしまいました。その心の中から、悪しき言葉が口をついて出でて、人を傷つけ、戦いや争いを引き起こします。
「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」この直言を心に留めたいのです。これは呪いの言葉でも訣別の言葉でもありません。
「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」
聖霊を住まわせているとは、救われたキリスト者に対する言葉です。救われてもなお、そこまでも落ちぶれ、神様から遠く隔たった者のため、そんな死臭漂う廃墟のような心にも、なおも神様はご自身の聖霊を遣わしておられる。そして心配して、妬むようにして心焦がれる気持ちで遣わされ懸命に働く聖霊を見ておられる。そこまでも大切な御霊を惜しげもなく私たちの心の内に住まわせていて下さる。
「そういうわけだから、神に従いなさい。そして悪魔に立ちむかいなさい。神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいて下さる。」

神様はずっと私たちの近くにおられました。ここに神様の愛があります。哀しみ憂いも束の間のこと。私たちは神様をこそ待ち望みたいのです。

 

◇2023年10月15日 ヤコブ3:13-18 「上からの知恵」
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」
クリスマスのあたたかさが待ち望まれるこの頃ですが、地の上に平和があるようにとの天使たちの賛美は切実なるものでした。昔も今も、戦いや争いが絶えません。
心の思いが口をついて出てくる訳ですから、私たちはまずその私たちの心根を御さなければなりません。ヤコブ書は私たちの心の中を凝視するようにと迫ります。
「知恵がある」とはどんな事でしょうか。それは知識が豊富で賢明な判断が出来、頭の回転が速いこと、経験のあること、そういう事でしょうか。
しかし聖書は知恵にも二種類あると語ります。それが上からの天から来る知恵と、地に属する知恵です。地に属する知恵は、苦々しい妬みや党派心があり、尊大で人を見下し自己中心でライバル心で満ちています。しかし天来の知恵は純粋で平和と調和を願い、謙遜で思いやりがあり、我慢強く寛大で、道理を愛して誤りがあれば自分の非を認めます。
どういう人生哲学に生きるのか、様々の思いが私たちの心を去来しますが、私たちは
神の義(神様との正しい関係が成り立つことによって交流が生まれる状態)と平和、ハーモニーを求めて、上からの知恵をただ求めて、地に属する知恵からひたすら脱却して進みたいと願うのです。


◇2023年10月8日 ヤコブ3:1-12 「制しにくい悪」
本当の、生き生きとした信仰とは、救いと恵みをもたらす生きて働く信仰とは何か。そのことをヤコブ書は繰り返し語ります。その中で今日取り扱うのは私たちが語る言葉についてです。
巨大なな船を操縦するもの、あれだけ大きなものを右へ左へと自由自在に操縦するために用意されているものは小さな舵です。小さなもので大きなものを操縦できるということは便利なことですが、小さなものが大きなものを飲みつくす悲惨もあります。それは山火事です。最初はマッチ一本の火であろうとも、それが乾いた木々に燃え移ると、たちまち燃え広がって消すのには人間の手にはるか及ばなくなってしまいます。
そのように、人の舌はごく小さな体の器官であっても、時に人生を焼き尽くす羽目になる、人が極めて御しにくい、不義の世界、制しにくい悪、死の毒に満ちている存在と記してあります。
しかし私たちの舌が勝手に悪を語るのではありません。言葉が舌に上るのは、その人の心の中の思いが現れるということは明白です。目に見えない心の中の思いが舌に上り、言葉となって表れるのです。つまり舌が制しにくい悪であるということは、私たちの心根が制しにくい悪であるということを言っているのです。
賛美も呪いも共に心の中に相住まわせている私たち。神様は「心を新たにすることによって、造りかえられ」なさい(ローマ12章)と語られます。

 

◇2023年10月1日 ヤコブ2:14-26 「行いによって信仰が全うされる」
信仰が大切であることが巻頭から示されていました。
「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出される…なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」
何ら欠点のない、完全な、出来上がった人となるように信仰が試されて忍耐が生じることが大切だと言われましたが、その信仰が試されるとはどういうことなのかということが語られています。「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つこと」とありますように、信仰とは、信じるだけの精神世界ではなくて、現実世界の中での実践による陶冶を通して全うされるということが語られています。
「信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」るということ、この事を私たちは心に留めたいと思います。自動車免許を取ってせっかく車を路上で運転できるというのに免許証を取ったということに感激してそれを額に入れて働きが完成したという人はいないと思います。同じように信仰も、それを用いて働きと実践の場に出てこそ価値のあるものとなります。
私たちを必要としている方々に仕え、神様の愛と憐れみが今日その方々に実現するために私たちが手足を動かすこと、これが神様が私たちに望んでおられることです。

 

◇2023年9月24日 ヤコブ2:1-13 「あわれみは、さばきにうち勝つ」
人にはそれぞれ考え方があり、物事についての優先順位があるように思います。普段の生活の中ではそれを意識することがない時にも、何かの時に垣間見えることがあります。
厳しそうな人から垣間見えるやさしさ、人嫌いかと思われた人が子供に示すにっこりとした笑顔、その人らしさを形作る考えが、或いは一人一人にはあるかもしれません。
今日の聖書の個所でははっきりと神様の信念が現れています。それは人を分け隔てして差別するなということです。
世の中には力のある人におもねることが成功の道だとの考えがあります。へつらう時、得てして力無き人には驕ったり見くびったりするものです。
神様は自身の弱さを嘆き、救いを得たいとの心の砕かれた貧しきものを愛されます。神様はそのようなくずおれたものを見すぼらしい弱い者とはみなされません。
あなたの頼る富む者、権力ある者はあなたを虐げ、あなたを訴える者ではないか。誰に頼るべきなのかしっかりと見定めよと聖書は語ります。
この世の貧しいものを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちを御国の相続者として下さる神様のご信念を悟りたいのです。
「あわれみは、さばきにうち勝つ」。神様は私たちにキリストの贖いのうちについに「自由の律法」を打ち立てて下さいました。キリストの愛になぞらえて、愛の心の信念に生きる時、私たちはさばきから免れ、律法を成就することが出来ます。

 

◇2023年9月17日 ヤコブ1:19-27 「御言を行う人になりなさい」
「聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅く」。これは色々な本にも見られる知恵の言葉です。人はどうしても聞くより話す方に意識が向かい、得てして人の言うことを聞くよりは自分が語る事を好みます。人の言うことは上の空で、自分の聞きたいことには耳を傾け、言い訳をよく語ります。
人の心の中には人と人との間の交流を妨げる要素があり、聖書はそれを「すべての汚れ、はなはだしい悪」と表現します。人の心に罪があります。
「心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」。
これが聖書が示す救いです。聖書の中には人間の心の内にある、どうしても拭い去ることの出来ないすべての汚れとはなはだしい悪とを取り去る解決があります。
その御言葉を聞くだけで行わない者は、自分の真の姿を鏡で見て、その時には身を正そうと思うのですが、見るがままではそのありのままの姿を見て忘れる者のようであり、御言葉に心を留め、そうするばかりではなくて、実際に御言葉を行うことによって生きることが大切であると語られます。「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人」になるというのです。それではいかに御言葉を行うのか。それは御言葉を味わうほどに知らされる神の愛に即して進むことです。苦しんでいる人の苦しみに寄り添い、仕え、主の愛を全うすることです。

 

◇2023年9月10日 ヤコブ1:12-18 「被造物の初穂とするために」
先週の個所では、試練にあっていることを喜びと思いなさい、信仰が試される時忍耐が生じ、何ら欠点のない、完全な出来上がった人となるために、疑わずに信じて望みなさいと書かれていました。
今日も試練について語られます。先週の個所と合わせ読みますと、どうやら試練にある人たちは、その苛烈なる試練を与えられた神様を信じることが出来なくなっているように見受けられます。ですから人を困らせようとしている遠い神の姿ではなくて、それによって鍛え、強め、精錬しようとしている神様のお姿を述べ、「誘惑は神から来たものだ」と考えないようにと諭しているのです。神様は、人を誘惑によって不適格だという烙印を押そうとする悪の誘惑に陥るような方ではなく、自ら進んで人を誘惑するような方ではないと語られます。
そうではなく、人が誘惑に陥るのは(試練が身を持ち崩す誘惑となってしまうのは)人が欲に引かれ、誘われるからである、その欲がはらむと死を生み出すと警告されます。
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない」のであり、神様は私たちを欲の中に生まれさせるためではなく、「被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さった」とはっきりと書かれています。キリストの贖いは、古い行いを脱して神の言葉によって私たちに良い実を実らせるのです。


◇2023年9月3日 ヤコブ1:1-11 「非常に喜ばしいことと思いなさい」
「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブ」。このヤコブはイエス様の弟であり、使徒15章のエルサレム会議にて指導的な役割を持っていたヤコブであると考えられます。
「兄弟たちもイエスを信じていなかった」(ヨハネ7:5)とありましたが、主の復活の後に深く主を信じる者となり、自らを神から遣わされた主イエスキリストのしもべと呼ぶまでになりました。この書には、信仰とはどういうものか、信ずる者はどのように生活するべきか、教会とはどういうところかなど、実践的な示唆に富む言葉が記してあります。
色々な試練の中にあっても非常に喜ばしいものと思いなさい、忍耐が生み出され、その忍耐が完全に働くとき、すべての事にかけるところのない、完全な健全な人となるからとの、苦しみの中にある人たちに語り掛ける内容があります。
またヤコブは知恵を求めなさい、疑わずに求めなさいと命じます。ここでは知恵がないということと、信仰がないということが同様に語られているように思います。私たちは神様への信じる心、忠誠心が揺らぐときに生活のあらゆるところに、どうにもこうにもコントロールできない不安定さを抱えるものだ、ドーンと信じなさい。主を畏れ信じることが知恵のはじめであることがここに記してあるのではないでしょうか。貧しい境遇を誇れ、主無くして富む者の富は草花のように儚いと語られます。私たちが何を大切にすべきかが語られています。

 

◇2023年8月27日 へブル13:1-19 「主はわたしの助け主である」
いよいよへブル書も最後の章となりました。比類なきイエス様の天の大祭司としてのご存在が余すところなく語られました。申命記31章のこの御言葉が引用されました。
「だから、わたしたちは、はばからずに言おう、『主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか』」
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ」、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」というイエス様を見続けましょう。
「…死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」
このイエス様を見ましょう。
「さらに、『主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない』とも言われている。」

 

◇2023年8月20日 へブル12:1-13 「信仰の導き手、完成者であるイエス」
先週、私たちは目に見えるものはすべて、目には見えない神様の言葉によって造られたと知り、「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する」信仰の力を信仰の先人たちから学びました。
「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか」。聖徒たちもひた走ったこの競争。そして主の教えに与かって育てて頂くその訓練。こうして絡みつく罪の中、がんじがらめになって身動きが取れない萎えた手と弱くなった膝を伸ばして義の競争を走り抜きなさいと聖書は語ります。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。」
訓練と競争。それは苦しいことのように見えますが、それは懲罰ではなくて、愛なる神様の子育てであると学びます。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」

 

◇2023年8月13日 へブル11:1-16 「もっと良い、天にあるふるさと」
今日は信仰に生き、天の都に帰られた私たちの家族、そして信仰にある兄弟姉妹方を偲ぶ日です。
信仰により私たちは、「この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟る」のです。
神様はそのお口の言葉をもってこの世界のすべてを創造されたと聖書は語ります。したがって、目に見える者すべては、目に見えない神の言葉によって造られたと聖書は語ります。
そうであるならば、私たちもまた、目に見えるものに頼るのではなくて、目には見えない、しかし力ある神様とそのお言葉に頼るがよいと聖書は語るのです。
信仰とは何か。それは「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」であると聖書は語ります。
見ずとも確信すること、見ずとも確認すること、この先んじた保証を与えるのが信仰だと聖書は語ります。
「地上では旅人であり寄留者」。「彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさと」。この生きる世界に苦しみがあり、病が、悲しみがあります。しかし私たちには天に本国があるのです。

 

◇2023年8月6日 へブル10:1-18 「信仰に立って、いのちを得る者」
「律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではない」との核心に触れる言葉から始まりますこの10章を読み進めてまいりましょう。
「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」と語られたイエス様は、「後のものを立てるために、初めのものを廃止され」ました。
すなわち、「この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである」とありますように、イエス様は、後のもの、より良い完全なものを打ち立てるために、「キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」て下さいました。
思えば人は罪を犯し続け、常に良心の呵責にさいなまれ、混沌の中を生き続けました。「儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはず」ですが、罪の自覚は人を責め続けました。
しかし、「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」ようになりました。
「わたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者」として頂いたことに感謝いたしましょう。

 

◇2023年7月30日 へブル9:1-22 「キリストは新しい契約の仲保者」
今日もキリストイエスによる救いがいかに比類のなきものかが語られます。
ここでは神殿の聖所と至聖所が紐解いて語られます。
「祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。」
幕屋の奥こそが神様の臨在の契約の箱がある至聖所であり、大祭司のみが年に一度だけいけにえの動物の血を携えてはいるのでした。
前章にて、地上の聖所は天のそれの写しや影に過ぎないとの話がありました。その写しの神殿にて、山羊や牛の血がひとの罪を贖うのならば、「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」と聖書は語るのです。
かつての神殿では、「供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない」、しかしキリストの血は完全なる救いをもたらします。
私たちは、神様がそこまでして私たちを贖いきよめ、心の底から良心をきよめ、罪に死に、生ける神に仕える者となることが出来るようにされている、キリストの救いの完全性を自覚して、感謝のうちに進ませて頂きたいと願います。

 

◇2023年7月23日 ヘブライ8:1-13 「さらにまさった契約の仲保者」
今日はへブル8章です。その文頭、「以上述べたことの要点は」と切り出します。
天使を挙げ、モーセを挙げ、メルキゼデクを挙げ、そしてそれらに比しても圧倒的な存在感を持つイエス様について語り、いよいよここではその結論として、地上の神殿を司る大祭司らに勝る天上の真の幕屋なる聖所で使える大祭司、イエスキリストについて語られます。
天には地上の聖所にはるかに勝る聖所があります。地上の壮麗な神殿といえども、そのひな形と影にすぎません。
地上の聖所の大祭司も重要な役割を担っていますが、キリストははるかに優れた務めを得られ、さらに勝った約束に基づき、さらに勝った契約の仲保者となられました。
出エジプトの時、神様はモーセを通して民に十戒をお与えになり、神様が手を取って、エジプトから救い出した民を導こうとされました。しかし民はその契約にとどまろうとはしませんでした。
そこで神様は新しい契約をお与えになられました。それは聖霊により、神様の思いを私たちの心深くに確かに刻み込むことでした。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民と」なり、「彼らはことごとく、わたしを知るように」なる。「わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」という新しい契約がイエス様の贖いによってついに達成されたのです。この恵みに目を留めたいと思います。

 

◇2023年7月16日 へブル7:1-28 「律法の後にきた誓いの御言」
今日も聖書は旧約聖書の中のイエスキリストを指し示し、永遠の大祭司としてのイエス様の卓越性が示されます。
レビ族であるアロンの子らが祭司に任じられる前から、すでにメルキゼデクは大祭司としてアブラハムの前に立ち、十分の一の捧げものを渡され、神の祝福をアブラハムのために祈ったことが挙げられます。
父も母も、系図も記録のない人のことが挙げられ、アブラハムの子孫であるレビも(ましてやアロンも祭司たちも)このアブラハムの末裔であることから、アロンの子らの祭司性に比して、どうしてこのメルキゼデクの祭司性が必要であったのかと問いかけます。
「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」と聖書が言う時、メルキゼデクに似た永遠の大祭司、イエスキリストの卓越性を示すために、ひな形としてメルキゼデクという不思議な祭司が必要であったということが分かります。
「さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせ」、「イエスは更にすぐれた契約の保証となられ」、「律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司とした」のです。イエス様は、「永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられ」、「いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができる」お方です。私たちはこの救いの確かさに感謝するばかりです。

 

◇2023年7月9日 ヘブライ6:1-20 「力強い励ましを受けるため」
前章に引き続き、この章では「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか」と語り継がれます。
ここでは、「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たち」とありますので、イエス様を信じた人たちについて語られているものと思います。
しかし、種まきのたとえの道端や、岩の上や、いばらの中に落ちた種のように信仰に長続きせずに迷い出てしまうことがあります。
しかし神様は不義な方ではなく、神様を愛し仕えた事柄を忘れずにおられ、最後まで望みを持ち続け、信仰と忍耐をもって約束のものを受け継ぐことが出来るように、忍耐強く進んだ人を見習いなさいということで、アブラハムが登場します。彼は神様のご命令の内、「あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので」、神様は誓ってこの14節に引用された祝福をお与えになられました。
「アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得た」、「前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたち」は、「力強い励ましを受」けるのです。「たましいを安全にし不動にする錨」を、イエス様は私たちのために天でしっかりと支えていてくださいます。

 

◇2023年7月2日 ヘブル5:1-14 「永遠の救の源」
へブル書ではイエス様を御使いに勝る方、モーセに勝る方と紹介した上で、今度はメルキゼデクに等しい祭司、大祭司と紹介します。
メルキゼデクは旧約聖書では創世記14章と詩編110編に出て来るのみです。イスラエルが統治する以前のエルサレムの王と考えられ、彼はいと高き神の祭司であり、アブラハムを祝福し、アブラハムは戦利品の十分の一を彼に捧げました。メルキゼデクの系図も、出生の記録もなく、神から立てられた者との、そのメルキゼデクになぞらえてイエス様が紹介されます。
大祭司と言えども自らのためにも神に罪のなだめの供え物を捧げなければならず、自らの弱さのゆえに苦しみながらその執り成しをするものですが、イエス様は激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに父なる神様に聞き入れられました。
彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となられました。
もっともイエス様はご自分の罪のために供え物を携える必要はありません。しかしそれでもなお苦しみの中に信仰と従順に進まれ、完全とされ、救いの源とされました。この方に身を避け、このお方に従順に進むとき、私たちもまた救いの源なるお方によって全き者としていただけるのです。

 

◇2023年6月25日 へブル4:1-16 「わたしたちの弱さを思いやるお方」
前章では、盛んに、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」と語られました。そして「わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」とも書かれています。心をかたくなにして、1か月余りでたどり着く道のりを40年もかける中で、多くの人たちは約束の地を見ることなく荒野で息絶えました。
不従順と不信仰とを捨てて、モーセに勝る導き手、救い主、イエス様に頼りなさいと書かれていました。そして4章でも引き続き、念入りにそのことが語られています。
「神の安息にはいるべき約束が、まだ存続している」、「わたしたちにも福音が伝えられている」とあり、その福音を信仰によって心の深いところに結び付けられることが大切と語られます。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」その透徹した神の目がありますが、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。…わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」との良い知らせがあります。この憐れみのお方が大祭司として命綱として守っていて下さるのです。

 

◇2023年6月18日 へブル3:1-19  「大祭司イエスを思い見て進む」
1章では世界の創造者であり、御使いに勝る御子キリストイエスの姿が描かれました。2章ではその偉大なる御子が、御使いよりも低き姿を取り、人となられ、身代わりの死を遂げるまで低くなられ、「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つ」、「神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようになら」れ、「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができる」救い主と描かれました。
3章ではイスラエルがエジプトから救い出された出来事に用いられたモーセとイエス様を比較して、イエス様はイスラエルの家自体をお造りになられ、神の家に仕えるモーセとは違い、それを治めるお方であることが語られます。
導き手である神様と、遣わされたモーセを軽んじて、心をかたくなにして、荒れ野を40年さまよった不信仰の民のようにはならず、生ける神から離れ去るものにならず、「罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」と語られます。「四十年の間わたしのわざを見た」これは荒野の40年と見ることも出来れば、イエス様が天に戻られてからの40年と見ることも出来ます。それ以降もずっと荒れ野を行くような困難を進む聖徒たちと共におられる大祭司である主イエス様を思い見て進みましょう。

 

◇2023年6月11日 ヘブライ2:1-18 「こんなに尊い救い」
1章では、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる」と、高らかに語られました。どの御使いがこのように力ある御子と並べて述べられるだろうかと語られました。
そして2章でも、イエス様によってもたらされた救いが素晴らしいかが語られます。
神の、人に対する律法の御言葉は効力があります。人のあらゆる罪過と不従順にはその報いが必ず伴います。しかし私たちには「こんなに尊い救い」があり、その罪の報いから逃れることが出来ます。
「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。」と詩編8編にありますように、神様はその御子により、破格の救いを私たちにお与えになられました。
それは神の御子を御使いたちよりも低いものとなし、神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれ、市の苦しみのゆえに栄光とほまれとを冠として与えられたのです。
「万物の帰すべきかた、万物を造られたかた」が、「多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった」とありますが、本当にそれはふさわしいことなのでしょうか。どうしてそこまで御子たるものが身をかがめなければならないのでしょうか。これが神の恵みであり、これが「こんなに尊い救い」なのです。

 

◇2023年6月4日 へブル1:1-14 「御子は神の本質の真の姿」
ペンテコステの個所を読み、主の弟子たちに力を与え、地の果てにまでイエス様の証人として出で行くようにと神様はお約束のとおりに聖霊をお授けになられたことを味わいました。
聖霊はイエス様を主と告白させます。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない。」(1コリント12:3)
へブル書は、旧約聖書の引用が多く、へブル人たち、すなわちユダヤの人たちに聖書全体が証ししている救い主イエス・キリストを証しする大きな目的をもって書かれました。
しかしイエス・キリストが主であり、神ご自身であり、神が遣わされた救い主であることを深く知ることは、ユダヤ人にとってのみ大切にされるべき事ではなく、全ての人にとって知るべきキリスト教の中心点であると言うことが出来ます。
引用が多く理論的で、難解にも思われる本書ですが、読み進めてまいりましょう。第1章では、御子イエス・キリストと御使いとの本質的な違いが何度も記してあります。イエス・キリストは単なる御使いであってそれ以上のものではないという見方がユダヤ教にはあり、自身を神とするイエス様を神への冒涜だと指導者達は裁きましたが、神は御子によって世界を創り、御子キリストは神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であり、力ある言葉をもって万物を保っておられると語られます。ここに神の姿があります。

 

◇2023年5月28日 使徒2:1-13 「燃える炎の舌をもって」
復活から50日。イエス様は40日、つい先日まで弟子たちを離れずに寄り添い、付き添って、ご自分が生きておられることを数多くの確かな証拠をもって示されました。
そしてその朝。イエス様のお言いつけ通りにエルサレムを離れずに集っていた弟子たちに聖霊が降りました。
一同が座っていた家の中で、轟音と共に聖霊が弟子たちの上にとどまった(座った)のです。
激しい風の轟音とともに現れた燃える炎の舌。これは聖霊ですが、「舌」というこの単語は4節では「言語」とも訳されます。聖霊が燃えて輝く「舌」として現れたということは、弟子たちが新たな舌(言語)を得て、「力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)との約束の成就に他なりませんでした。そしてこの初穂を祝う「七週の祭り」には世界中からの巡礼者を迎え、格好の主の弟子たちのお披露目の時となりました。
そこでは「いったいどうしたことか」との声がこだましました。驚きが溢れました。復活、聖霊の降臨、習いもしない外国の言葉で証しすること、主の生誕と奇跡のわざ…。ここには考えもつかないことが満ちています。それが主の御業です。それが信仰者、主の弟子たちに起こることです。
私たちも、力ある神様の御手の中で、聖霊によって力を受け、燃える舌のような聖霊を受け、燃える舌をもって今週も大胆に主イエス様の証しをさせて頂きたいと願うのです。

 

◇2023年5月21日 使徒1:3-11 「主は今生きておられる」
主のご復活から6週間。混乱の朝から始まり、不安がる弟子たちにイエス様はずっと付き添ってくださいました。ペンテコステ迄の50日の間、実に40日にわたってイエス様は度々弟子たちに現れ、神の国の事を語られました。
イエス様は、「自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示」されました。弟子たちにとって知るべき最も大切なことは、「主は今生きておられる」という事実を心深く信じることでした。
「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
すなわち、…あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」
「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
イエス様はかつて弟子たちにこう語られました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)
イスラエルのため国を復興する、しかしそれに勝って神様は聖霊により弟子たちに力を与え、いよいよこの地上に神の国を建て上げらようと願っておられます。 弟子たちが見ている前で天に行かれるイエス様。ポカンと見上げる彼らに御使いは「またおいでになる」と語りました。御国のため心励んで進みましょう。

 

◇2023年5月14日 マタイ28:1-20 「恐れるな、喜べ」
主の復活の日以来、ずっとその出来事を読み、弟子たちの姿を見てまいりました。主の復活の出来事の確かさ、その予告の御言葉の実現の確かさをひしひしと感じました。それに比べて右往左往としておろおろとする弟子たちの姿もはっきりと見えました。恐れ、不安を抱き、途方に暮れ、疑い、信じない姿がありました。
ふとこう思うのです。私たちは主を信じるか、目に見える状況を見て、私たち自身の恐れを信じるかの二択をいつも迫られているのだと。
イエス様は恐れるなと語られ、信じなさい、喜びなさいといつも私たちに語り掛けられます。一方で暗闇の力は絶望を吹き込み不安を煽り立てます。
恐れるべきは主のお力です。目に見える、私たちを取り巻くべき状況ではありません。
番兵たちは、自分の命と引き換えに守るべきものを守っていました。(使徒16章の獄吏を参照) 本来居眠りをしていて死体を盗まれたなどと言ったら厳罰に処されることでしょう。しかしそのような苦しい言い訳をしなければ説明出来ない異常事態が起こったのです。稲妻のように輝く主の御使いが、重い墓石をいともたやすく転がし、屈強な番兵は赤子のようになすすべがありませんでした。
こういうことをお出来になる方を畏れ、思いを向けるべきであり、私たちの心の思いなど、いかに恐るべきことがあるでしょうか。
世の終わりまでいつも共におられる主の定めを愛し、守り行いたく願います。

 

◇2023年5月7日 ヨハネ21:15-25 「わたしの小羊を養いなさい」
弟子たちを「わが子」と呼びもてなす、ガリラヤ湖畔での主の温かな出来事の続きです。
「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」との問いにはどんな意味があるのでしょうか。どうして他の弟子たちと比較してより愛するかとお聞きになられるのでしょうか。これはイエス様がペテロの気持ちに寄り添っておられる故なのではないでしょうか。ペテロはいつでも弟子たちの先頭を行く意識を持っていました。誰よりも深く主を愛し、獄に至ろうとも、死の危険を冒しても主と共にいると語りました。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と信仰の告白をしました。そんなペテロを見て主は「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」と語られました。主はこの愛するペテロの姿勢を見て、先にはつまずき倒れても、今度は私を愛してくれるよねと、彼を理解して、信じて3度問われました。そしてむしろ3度までも語るということにより主が意図しておられるのは、「わたしの羊」の世話をして欲しいということでした。
あなたなら出来る、他の弟子たちよりもわたしを愛し、そして私の羊の世話をしてくれる存在。あなたに任せるよ、よろしく頼むよと主は念を押して彼に語り掛けられたのではないでしょうか。私たちもまたそうして助け合えるように、主からのあふれる信頼と励ましを頂いているのです。

 

◇2023年4月30日 ヨハネ21:1-14 「あまり遠くない五十間ほどの所に」
「ご自身をまた弟子たちにあらわされた」「弟子たちにあらわれたのは、これですでに三度目」とあります。エマオの途上で、そして時を同じくしてペテロに、そして弟子たちに現れ魚を召し上がり、そしてもう一度弟子たちに。
今回も魚にまつわる出来事です。初代教会がイエス様を思い出すときに魚(ivcqu,j)(イエス、キリスト、神、の子、救い主)という言葉をよく用いたのもうなづけます。
それにしましても、「子たちよ」と呼び、朝に昼に夕にと現れ、恐れと悲しみとを取り除き、パンと魚を食べさせて下さるイエス様のお姿には感動いたします。本当にイエス様はこの世界の作り主であり、人類の主であり、いわば親権者である神様なのだなあと分かります。
失意の暗闇の中。イエス様はその不漁の弟子たちをも見守っていて下さいました。90メートル先の浜辺で、身を乗り出すようにイエス様は夜通し弟子たちを見守り、その網を上げるごとのため息、嘆き、悲しみに心を向けていて下さいました。しかしその時にすぐに駆け寄ってどうにかしようとは思わず、90メートルの先で祈りながらじっと見守っておられるのです。
何度も何度も現れ、弟子たちのことを決して遠くない所からじっと良く観察しておられ、時が来れば「子たちよ」と語りかけて下さる。お言葉をかけられ、それに従えばまた奇跡が起こる。イエス様はそういうお方です。イエス様は今日もそういうお方です。


◇2023年4月23日 ルカ24:36-53 「見なさい。まさしくわたしなのだ」
2000年前のイースターの朝の出来事、それは最初には喜びの爆発の朝ではなく、恐れと惑い、途方に暮れ、打ちひしがれて主のお言葉も思い出せない、信じることに失敗した弟子たちのみじめな朝の出来事でした。
イエス様はエマオの途上で、またペテロに、そして弟子たちに現れて下さり、その冷え切った心を温めて、恐れの氷を溶かして下さいました。
「やすかれ」、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。」私たちの信仰生涯の中にもしばしば主が語りかけて下さるそのお言葉なのではないでしょうか。
「まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。」1ペテロ1章の御言葉を思い出します。
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」  「喜びのあまり、まだ信じられないで不思議」という出来事が起こる人生とは、なんと素晴らしいのでしょうか。復活の主がおられる人生とは、まさにそのような人生です。主は私たちが信じることが出来るように、魚を食してくださいました。
「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」語られる主のお言葉に感謝し、約束の聖霊に感謝します。主は私たちの目を開かせ、心に聖霊を満たして、いよいよ私たちを喜びに満たしてくださいます。

 

◇2023年4月16日 ルカ24:13-35 「お互の心が内に燃えたではないか」
先週の主の復活の聖書の個所の中には、主の喜びの復活と裏腹に、途方に暮れ、驚き恐れて天使を前に顔を上げられない女性たちの姿があり、復活の出来事を聞いて、弟子たちがそれを愚かなこととして全く意に介さなかった様が描かれていました。
今日の個所の中でも、イエス様がエマオの途上で、弟子たちにこう言われた言葉が記されてあります。
「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。」
預言者たちがあんなにもたくさん語ったのに、愚かで無知で、信じる、信頼するに遅く、自分の大切なものをそこに託すことのできない人…。目が閉じていて、キリストがその途方に暮れて歩きを止めて立ち尽くす、失意の弟子たちと共におられるというのに、あたかも自分たちだけで苦境を乗り切っているかのように錯覚し、ため息をつく弟子たち…。この御言葉を読むにつけ、身につまされます。ああこのエマオの途上の弟子たちは、ああ、女性の証しを聞いてもあの信じなかった弟子たちは、墓の前で主のお身体が無く、おろおろしている人は、私自身であると告白いたします!
しかし主は、「ああ、愚かで心のにぶいため信じられない者たちよ」と語りながら、私たちの人生の道々に御言葉を私たちにも語りかけ、解き明かし、私たちの心の目を開き、私たちの心を内に燃やし、あかあかと希望と命の光に輝かせてくださいます。

 

◇2023年4月9日 ルカ24:1-12 「途方に暮れている人への光」
主のご復活、おめでとうございます。「忘れないで 悲しみの夜は 希望の朝(あした)に変わることを…」との賛美を歌いました。「わたしはここにいる あなたを背負って 歩いてきたのだ あなたは何も恐れなくてよい 私が共にいるから」との賛美も歌いました。これがイースターです。これが復活の力です。これがイエス様の父なる神様、これがキリスト教です。
辛いこと、悲しいこと、失意の夜、私たちにはそうした数々の夜の暗闇があります。そして、思ったように、願ったようにならず、また青天の霹靂があり、途方に暮れ、心に満たされない欠乏や喪失、孤独の気持ちが押し寄せ、確信が持てず、あやふやで当てにならない、不安な気持ちになったり、混乱と不安、動揺に悩まされる時があります。
そんな女性たちに天使が突如として現れ、彼女たちは恐怖におののきます。悩みや不安や恐れの原因は何でしょうか。天使はこう言いました。
「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。」
ルターの妻がルターの悩みの時に「あなたの神が死んだから」と喪服を着て彼の前に現れた話を思い出します。私たちの神様はいつも生きておられます。どうして私たちは生きている主をいつも死者の中に骨折り探し、見つめようとするのでしょうか。
「ここにはおられない。よみがえられたのだ」私たちも日ごろから、この御言葉を繰り返し味わいたいと願います。

 

◇2023年4月2日 ルカ23:26-49 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」
受難週。多くの人達が交錯するイエス様の十字架です。
嘆き悲しむ人、傍観者、あんなに力ある者がこのざまか、さあご立派な神の救い主、選ばれた者、ユダヤ人の王ならば自分を救ってみろとあざ笑う役人と兵たち、そして共に死罪に処されている犯罪人の一人までもが十字架の脇でイエス様に侮辱の言葉をかけ続けます。お前は救い主とやらではないのか。そうであるならばどうしておめおめとその、汝を死に至らせる十字架と共におるのか。さあ自分を救い、そして我々をも救うがよい。
「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)との人の虚しき言葉が折り重なる中、人の罪とがのごうごうと折り重なる中、イエス様は世の罪を取り除く神の小羊として十字架についておられました。
「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」この一人の、罪を悔い改めた人の声のなんと清々しいことでしょうかさながらに泥沼の中の蓮の花のような一声でした。
シモンというクレネ人。この人もまた、刑罰と何の関係もないのに十字架の横木を負わされた人でした。彼も、犯罪人の一人も、百卒長も、イエス様の近くでじっとイエス様を見つめた人たちでした。

 

◇2023年3月26日 ルカ22:54-65 「わたしはあの人を知らない」
主イエス様の弟子であるということ。それはなんという光栄なことだったのでしょうか。主と共にあるという幸いの中に弟子たちは時を過ごし、神様の御業を見、証しの言葉を聞き、イエス様は父なる神の元から遣わされたメシア・救い主であると信じたのでした。
「この人もイエスと一緒にいました」「あなたもあの仲間のひとりだ」と言われることは、名誉なことでした。しかし、ペテロは「わたしはその人を知らない」、「いや、それはちがう」、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」と、イエス様の予告の通り、自らが強く否定したにもかかわらず、3度も主を否定してしまいました。
果たしてその通りになってしまった。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」とまで言ったのに、そのつい数時間前の自分の言葉と真逆の事をしてしまった。尊敬する主を否んでしまった。
「だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。」(ルカ12章)とのイエス様の言葉が思い出されます。何という過ちを犯してしまったのだろうと後悔してもし切れない事、自分の弱さをつくづくと思い起こし、後悔の涙を流すペテロでした。主が振り向いて自分を見た眼差しと、「信仰がなくならないようにあなたのために祈った」との主の言葉が心に刺さるのです。


◇2023年3月19日 ルカ22:31-46 「あなたのために祈った」
サタンは主の弟子たちを麦のもみ殻のように無価値なる者、失格者と言わんがばかりに挑戦を仕掛けます。「獄にも、死に至るまでも一緒に行く」ということが本当にできるかどうかが、合否の分かれ目だったのかもしれません。しかしペテロはこの夜の明けきらぬ間に三度も主を知らないと、縁切りの発言をしてしまいます。主は罪人として引かれて行き、弟子たちの命にさえ危険が及ぶかもしれない状況でした。
今日の個所では、信仰者の徹底的無力が語られています。力強い熱意もむなしく、決意も崩れ落ちます。もみ殻のように無価値なものと判断され、これではもう私たちの信仰は無きものと裁かれてもしかるべき大失敗の中で、失敗者、落伍者との烙印を押そうと戦いを仕掛けてくるサタンの力の畳みかけてくる中で、私たちの信仰が吹き消されそうになるその時、主の祈りの声が聞こえてきます。
「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」
祈りです。所詮は弱く、無力な私たちは弱いまま、祈りをもって主の御前に出ます。私たちの決意も力もむなしい、その圧倒的な猛威の中、私たちには祈りがあります。主が誘惑を吹き飛ばしてそこから立ち上がられたように、私たちも祈りによって進むのです。

 

◇2023年3月12日 ルカ22:24-30 「わたしは給仕をする者」
ルカ22章。祭司長や律法学者がどうやって民衆に影響力のあるイエス様を殺めるのかを相談していた時でした。
木曜日の夜、ユダヤの暦では金曜日に日付が変わり、過越の小羊をほふるべき除酵祭の日となりました。主は食卓を整え、弟子の給仕役となられました。そしてその食事とは、ご自分の身体と血の記念のためのパンとぶどう酒でした。
「人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」と主が語られると、弟子たちはいったい誰の事かと議論しました。そして主が去っていくことを聞けば、弟子たちの間で誰が跡目を取るのかと議論しました。主が過越のいけにえの小羊となってその身をささげて民を救おうとしているのに、彼らはそれぞれが自分の事しか考えていないように見えます。
「食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。」主は偉い者とはなられず、進んで低き者となられます。「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たち」。果たして本当にそうだったのでしょうか。そしてその日、主は血潮を流して木にかけられ、まさしく世の罪を取り除きさばきを過越させるいけにえとなられました。主は箸にも棒にもかからない祭司、律法学者、民衆、弟子たちのためにその身をささげて下さいました。

 

◇2023年3月5日 ルカ21:1-19 「わたしの名のゆえに」
受難節の時。十字架に向かうイエス様のお姿です。レプタ銅貨を二つささげた貧しいやもめが登場します。イエス様はそれがその女性の生活費のすべてであることを見抜かれます。とはいえこれはすずめ1羽の半分にしかならないお金でした。「1アサリオンで雀2羽」というお話がマタイ10章にありましたが、一羽では商品価値がなく、二羽セットでなければ商品価値のないその雀の一羽も買えない女性がいたということが驚きです。その100円ほどの献金でしたが、それで過ごしていくとは、どんな不安があったのでしょうか。どうして周りの人たちはそんな貧しい人を助けることがなかったのでしょうか。それにしても、この女性はそのなけなしのお金を神様にささげました。
神殿は見事な石と奉献物で飾られていました。そのような中、この女性のレプタ銅貨も、その生活の困窮も、人々からは見向きもされませんでした。
しかしイエス様はこの壮麗な神殿が粉々に破壊される時のことを語られました。人はついぞ目に見えるものに心捕らわれ、目に見えない大切なものを見落とします。「主の御名のゆえに」、イエス様の進まれた道のゆえに生き、イエス様を証しするということ。これが真の礼拝の姿です。奉仕は小さくても、持てる限りのものを用いて、ささげて、仕えること。この銅貨をこそ主は喜び、お受け入れになられ、迫害の中にも共におられ、助けて導いて下さるのです。

 

◇2023年2月26日 黙示録22:1-21 「主イエスよ、きたりませ」
「神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」との平安に満ちた神の都での様子が続きます。
「水晶のように輝いているいのちの水の川があり、川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす」との心安らかな世界がそこにはあります。
「のろわるべきものは、もはや何ひとつなく、夜ももはや」ありません。あかりは要りません。主なる神が彼らを照らす明かりだからです。
そしてこの世界の到来は「すぐに起こ」り、主イエス様は「すぐに来る」と繰り返し語られています。
それは信頼できることであり、この預言の言葉の書は神様からの尊いメッセージの贈り物であると聖書には書かれています。「すぐに来る」お方、「アルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終り」である方、始めから終わりまで、すべてをお見通しのお方を前にして、いのちの木に預かる特権を得て、都に入るため、悪しき業を捨てて自分の着物を洗うようにと勧められます。黙示録3章に、「あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。」との言葉を思い出します。私たちは「すぐに来る」新たな世界のために備え、また証しする者であり続けたいと願います。

 

◇2023年2月19日 黙示録21:1-27 「もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない」
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。もはや海もない。海は古代人にとっては嵐による危険など恐怖の象徴であり、その奥底に悪の根源のある所とも考えられていました。その海ももはやなく、死も悲しみも叫びも痛みも、もはやなく、先のものももはやないと聖書は語ります。
窮状と困難がありましたが、今は「渇いている者には値なしに命の泉から飲ませよう」と語って下さる方の世となりました。「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」と言って下さるのです。
聖都エルサレムは夫のために着飾った花嫁のように美しい姿で天から降り、ヨハネはその姿を見ました。これは神様の栄光に輝く教会の姿です。
その輝きはきらめく宝石のようでした。ビリピ2章にはこうあります。
「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、…星のようにこの世に輝いている。」
「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。
都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。」
この完全な神の都にて、暗闇を経験することなく、神様のご臨在の光に照らされ宝石のように輝く栄光の生活が私たちを待っています。


◇2023年2月12日 黙示録20:1-15 「いのちの書に名がしるされている」
イエス様がルカ12章の所でこう語られたことを思います。「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」
今日の黙示録20章ではついに最後の裁きが記されます。第二の死、火と硫黄との池に投げ込まれること。このことを恐れを抱かずに読むことが出来るでしょうか。
「これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。…このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」
このいのちの書には、人のすべての行状と、救われるべき名が記されているようです。
「全てのしわざ」が明らかにされて腹の痛まない人は誰一人いないでしょう。しかし、そのしわざにも関わらず、私の名がいのちの書に記されていて、しわざに関わらず赦しと命が与えられるということを思い、ただただ小羊なる主による救いに感謝します。

 

◇2023年2月5日 黙示録19:1-21 「イエスのあかしは、すなわち預言の霊」
今日も天上の集まりから声が響きます。「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のもの、そのさばきは、真実で正しい」、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう」、「白い馬がいた。それに乗っているかたは、『忠実で真実な者』と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。」と、様々に神様とイエス様をあがめ、証しする言葉が続きます。
「わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」(黙1:9)と語ったヨハネに、「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」との天使の声がありました。
このお方は「忠実で真実な者」、「王の王、主の主」、ご自分の血で染めた衣を着た贖い主であり、その尊い血潮で民をきよめ、民を神の花嫁として婚宴にお迎えくださる方です。
「光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許され」る神の民。しかし、「王の王、主の主」に逆らう者達の行く末は、空の鳥たちの餌食になる大宴会です。迫害されて死んでいった神の僕たちの血の報復はこうしてなされます。
「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、共に、われらの神をさんびせよ」アーメン、ハレルヤ、主を賛美いたします。

 

◇2023年1月29日 黙示録18:1-24 「一瞬にして無に帰してしまった」
地上に傲慢をもって富み栄える権力組織大バビロンの罪はついに天に達し、裁きの時が来ました。その栄光は永遠に続くかのように思われましたが、その時は一瞬にして到来しました。あらゆる高価なものを極めつくし、あふれるほどの豪奢の時は過ぎ、人の命さえ商っていたその異常さは過ぎ果て、裁きをなさる力強い方は一日にして、一瞬にしてそれを焼き滅ぼされました。その町と深い取引の関係にあった商人たちは一様に距離を置いて佇みその滅亡を見て、泣いて悲しみました。「これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは。」
人を奴隷とし、その命を注いででも自分たちの栄華を求める人たちの滅びは一瞬にしてやって来ます。その成し遂げたものもまた幻のようです。
神様はその民にこう言われます。「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」 強大な影響力をもってそっと忍び寄る誘惑を私たちは退け、力強い御業のもとに悪しき汚れた者に対して裁きをなして地に明るさを取り戻して下さる方、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血に報いて下さり、悪の世を二度と見ず、思い出されもしない程に焼き尽くしてくださる神様を畏れつつ進んでまいりましょう。
「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」1ペテロ5章

 

◇2023年1月22日 ヨハネの黙示録17:1-18 「小羊と共にいる召された者」
前章の最後の所で、神は大バビロンに対する裁きをなされたとありましたが、17-18章にはその詳細が記されます。大バビロンとは、ローマによって代表される地上の支配権や文化の象徴です。この神に敵対し、神を汚す支配者たちは、大淫婦と呼ばれ、これは21章9節の「小羊の妻なる花嫁」と対照的な存在です。
大淫婦、すなわちローマは大いなる川ユーフラテスに位置し栄えたバビロンのように栄え、自らの力に酔い、神の名を汚し、道徳的に腐敗し、聖徒の血を流し続けました。
獣は昔はいたが、今はおらず、底知らぬところから昇って来るとありますが、これは投げ落とされながらもまた戻ってきた悪魔(12:13-14)を指しますが、ついに滅びに至ります。これも1章4節の「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかた(主キリスト)」との対照をなしています。
ローマの皇帝は変わり、「聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれ」、「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」とあります。さしもの大国も、内部分裂によって崩壊していきます。「神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされ」ます。悪が栄えてもついには御言葉が成就します。復活の主を仰ぎ、慰めを頂き進みましょう。

 

◇2023年1月15日 黙示録16:1-21 「あなたは正しい方」
川が血に、地は暗くなり、かえるが現れ、雹が降り…、出エジプトの主の御業と、黙示録の先の七つのラッパの出来事が思い出されます。しかし今回は一国のみならず世界に、三分の一のみならず全体に及ぶ災厄が描かれています。
「地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた」御使い、「火を支配する権威を持っている」御使いに並び、「水をつかさどる御使」が登場しました。世界を創造され、非常に良いと仰せられた神様はどんなにか御使いを用いてずっとずっとご配慮をもって世を統べ治めて来られたことでしょう。しかし弟アベルの血を地に流したカインのように、神の聖徒と預言者たちの血を流した者たちのため、主は川の水を血に変えて血を飲ませなさいます。それは当然のこと、昔も今も生き続ける方、あなたは良く、正しく、汚れのない純粋で真実なるお方、あなたのお定めは正しいとの水を司る御使いの声が心に迫ります。
そのように激しい怒りの鉢を次々と投じられるに仕方のない人たちは(私たちも胸に手を当て、ただイエス様の贖いに感謝します)は、自らの罪過を棚に上げ、災厄のゆえに「神様を呪い、侮辱し、悔い改めることをしなかった」という御言葉に神様の悲しみを感じます。裁きによる災害の中、人はそれを起こるべき事と思うのか、不当なことと思うのか。胸に手を当てて考えるのか、神を呪うのか、私はどうなのかと心を探られるのです。

 

◇2023年1月8日 ルカ2:41-52 「イエスの賢さやその答に驚嘆していた」
「理解力」というものは大切なものだと痛感させられます。
明日は成人の日の祝日です。日本では昨年4月より18歳から成人となりました。判断力があり、大人として認められるのが成人です。ユダヤ人社会では、男子が13歳、女子が12歳で成人です。
イエス様はこの時12歳。毎年の過越しのエルサレム上りですから、成人になる前の最後の都上りでした。「少年イエス」と書かれていますね。
しかし少年イエス様の理解力、洞察力、知識や賢さは、エルサレムの神殿にいた教師たちが非常に驚愕するほどのものでした。この時イエス様は聞いたり質問したりされましたが、ご自分の意見を話されたとしたら後に起こったような論争となったのでしょうか。しかしイエス様の時はまだ満ちてはいませんでした。父母は心配で食べ物ものどを通らぬまま1日の旅路を3日かけて必死にイエス様を探してついに神殿まで戻ってきました。どうしてこんなことをしたのかと問う気持ちは十分に分かります。しかしイエス様はどうして探したのですか。私は父の家にいなければならないと言われました。両親はこの言葉を理解することが出来ませんでした。教師たちも理解できなかったでしょう。こんな風にして、神様の知恵深い御業は深く深く進行していきます。母マリアは今回も、心に大事に蓄えました。土が種を宿すように、時がかかり発芽するまでの間、蓄え待つ、判断を焦らない、これが知恵に生きる姿勢なのでしょうか。

 

◇2023年1月1日 ルカ2:21-40 「わたしの目が今あなたの救いを見た」
新年です。昨年は疾病と戦争、物価高など悩み多き年でした。今年は平和と慰めに満ちた年になってほしいと願います。
「律法に(より)」という言葉が5回。御言葉のとおりに進む生活の土台がここにあります。
シメオンは、信仰深く、国のために祈っていました。「聖霊が」と3回。ここにも聖書を愛し、宮での礼拝を愛し、祈り続ける人がおり、聖霊によって生活していました。彼は「死を見ない 救い主キリストを見るまでは」と、神によって知らされていました。救い主キリストを見るということは救いを得るということですから、彼は死なないということです。シメオンもアンナも高齢でした。アンナは84歳。現代で言えば驚くべき年齢ではないかも知れませんが、2000年前にすれば、他の人の2倍も3倍も(4倍も)生きたということになります。あの人たちは死なない人なのではないかと噂されていたかも知れません。彼らの生き方は、「神中心」の生き方、宮を離れずに夜も昼も断食して祈り、神を礼拝する生活でした。食べることすら忘れて神と世とのために生きる。彼らには神様の啓示がありました。聖霊の満たしがありました。
「倒れさせたり立ち上がらせたりする」救いの御子ご自身が倒れ、死に、よみに降り、復活されるその御業の中に、人の悔い改めと救いがあります。世を挙げての反対を突き付けられ、心が剣に刺し通されるように悲しみに痛みますが、主は勝利されたのです。

 

◇2022年12月25日 ルカ2:1-21 「恐れるな。見よ大きな喜びを」
クリスマスおめでとうございます。
2000年前、大国ローマが神の国を飲み込んでしまったかに見えていました。強い者が傲慢によって弱い者を打ちひしぎ、踏みにじり、搾取し、言いなりにしていました。イエス様もマタイ20章にて、異邦人の横柄なやり口を決して見習わざる模範として非難しておられます。
しかし万物を支配しておられるのは神様です。皇帝が「全世界」と呼ばれる広大なる支配地域に対して命令一下、膨大なる人数の人々が住民登録のために移動を始めました。権威発揚、国の堅固な支配を感じますが、これこそがミカ書5章にベツレヘムからイスラエルを治める者が出るとの預言の成就でした。世界を治める皇帝も、見事に神様の手の中にありました。
神の子、神ご自身であられるイエス様が馬小屋の飼い葉おけの中に横たわっておられる。何と奇異な光景でしょうか。しかしこれもまた神様の透徹したご計画の中での「しるし」でした。最初の礼拝者たちに選ばれたのは、始終野にあって手を洗うなどの衛生規定も礼拝も十分に守れない見下げられていた羊飼いたちでした。非常な恐れの中に陥れられた彼ら。しかし天使は恐れるな、大きな喜びがあると言いました。ここにすべての恐れと不安を取り除く喜びがあります。天からの救いの夜明けがあります。平和と調和があります。主が語られることは必ず私たちに実現します。恐れが喜びに変わるのです。

 

◇2022年12月18日 ルカ1:57-80 「私たちを救い出すため」
マリアの賛歌。そこには貧しき者と富む者の隔絶と、働かれた神様の御救いへの賛美がありました。この世界には問題が山積しており、神の民の間でもそれは例外ではありません。神の民イスラエルには、内から外から絶え間のない戦いがありました。
祭司ザカリヤの家に長く待たれた赤子が与えられ、彼は天使に告げられた通りヨハネと名付けられました。その名の意味は「主は恵み深い」です。
神はその民を顧みて贖い、私たちのために救いの角を立て、敵から、私たちを憎む者の手から救い出し、聖なる予言者たちの口によってお語りになったように、父祖アブラハムにお建てになった誓いを覚えて、あわれみのゆえに敵の手から救い出してくださったとザカリヤは繰り返して主の救いを賛美しています。
私たちを憎む者、私たちの敵とは、何を指すのでしょうか。
これは政治的にイスラエルを追い詰める数々の他国だけを指すものではないと思います。
ここでは「罪の赦しによる救」とあるからです。主なる神様は、イザヤ9章に預言されているみどりごイエス様によって罪と悲惨の暗闇に光が照ると語りました。黙示録の中に獣の暗躍を見ましたが、それに勝る神様のあわれみを見ました。私たちにとって、敵、憎む者、罪の力、暗黒と死の陰というものにピンと来ないと救いということにもピンと来ないのかもしれません。弱く貧しい罪びとに憐れみをかけて下さったお方を大きくあがめたいと願います。

 

◇2022年12月11日 ルカ1:26-56 「恵まれた女よ、おめでとう」
先には祭司ザカリヤにみ告げがあり、洗礼者ヨハネの輝かしい活躍が予言されましたが、ザカリヤは天使の到来に恐れ、神様のこれから起こる素晴らしい出来事よりも、自分にはそんなことは出来ない、妻にもできない、そんなことはあるはずがないと自分の頭の中で決めつけてしまいました。
マリアにも語りかけがありました。挨拶に戸惑いはしましたが、何を意味するのかを考えていただけで恐れは微塵もありません。数々のこれから起こることがザカリヤ同様次々と語られます。しかしマリヤはあくまでそれらの素晴らしいみ告げが到来することを疑いません。本当にそうなるのですねと念を押すような問いがあるものの、主の御言葉を疑うことはなく、主のお言葉がこの身になりますようにと願いました。
エリサベツは「主のお語りになったことが必ず(未来に)成就すると信じた者は幸い」と言いましたが、マリアはその讃歌の中で、主を今までよりも大きく見つめて賛美し、大きな事が起こり、憐れみと救いの諸々の御業は今すでに成就したと語ります。

どうしてもこんなにマリアは神様の語られる未来について平然と聞き、すでに起こったと確信できたのでしょうか。そこには彼女の絶えざる祈りと信仰があったと思います。マリヤは神様に、この世界の中に近く共にいて下さいと願いました。そして彼女の祈りは聞かれたのです。私たちも祈りの中、神様の救いを強く待ち望もうではありませんか。

◇2022年12月4日 ルカ1:5-25 「このようにして神様は」
何か素晴らしいことが確かに実現する、その花道を進む私たちはなんと幸いなことでしょうか。子供たちはアドベントカレンダーの窓を日々楽しみに開きます。そして25日には素晴らしい贈り物が用意されているのです。
神様の道、それは非難すべき所のない、欠点のない、完璧な道です。それを落ち度なく行うということは不可能のように見えます。そのような人の弱さと愚かさとの中に、神様のご計画があります。
神様にある人々は長らく祈りを捧げてきました。その思いに確信が持てず、歩みに確かさがなく、理解しがたい出来事の数々の中、人々は必死に祈り続けました。そしてその祈りはついに叶うのです。
人々は神様と離れずに進み続けてきたと思っていましたが、それは大きな間違いでした。人は逸れ、道を外れ、神様から遠く隔たっていました。そして人の世に、その人生に悲惨がはびこりました。しかし神様はこの上ない喜びを与え、もう一度神様に変える機会を与えて下さいました。
それがどのようにか知らないうちに、私たちの理解を超えて、神様の素晴らしいご計画は成り、整えられ、実現に至ります。私、私はそんなこと理解出来ないし、信じられないぞと、神様の前に我を張ることをやめましょう。神様は、ついに誰の目にも明らかになる形で、神様の時と方法の中で、私たちに心をかけて下さり、喜びに満たす御業を成し遂げて下さるのです。

 

◇2022年11月27日 黙示録15:1-8 「神の僕モーセの歌と小羊の歌」
巻物の七つの封印。七つのラッパ。そして今回登場しました七つの金の鉢。黙示録では終わりの時が来るにあたり、一つ一つのカウントダウンがなされますが、これで終わるのかと思うとまた七回がカウントされ、またその七つが終わり、最後かと思いますと、三たびも再び七つを数えて終わりの時を予告される神様のお姿がここにはあります。しかしここには「最後の七つの災害」とあります。「神の激しい怒りがその頂点に達する」とあります。その最後の七つの終わりのしるしはヨハネにとって偉大で素晴らしいものでした。人々が最後的な裁きを得ることは私たちの証しの失敗であり心が刺し貫かれるような苦しみですが、ここでは出エジプトの出来事のように描かれているのです。獣とその像とその名の数字は、徹底的にクリスチャンたちを迫害しました。皆殺しにし、売り買いをさせなくして飢えさせました。そういう獣の支配の中にあって、その圧政の中、出エジプトのように神様はその民を脱出させてくださいます。獣から、像から、数字から、神様は救い出し、神様の栄光のゆえに、力のゆえに満たされて進み行きます。神様の怒りは満ち溢れ誰も聖所に入れぬほどでしたが、その聖所で、ザカリアに預言が語られます。救い主が到来するのです。私たちは等しく皆罪びと、迷い出た者でしたが、主がその罪のもとから導き出してくださったのです。そうであれば誰が主の救いから漏れるのでしょうか。

 

◇2022年11月20日 黙示録14:1-20 「額に小羊の名とその父の名」
「見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、…人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」。前章では、はびこり栄える地上の悪の勢力の隆盛が描かれました。その名を刻印していなければ、皆殺しにされたり、売り買いが出来なくなり、大変な苦労が続きました。しかし今日の個所は神様による守りが語られています。聖徒たちのその額には小羊とその父の名が書かれています。群れの生き物に印が押されているということは、その所有者の名を明らかにし、その命を所有者が保護していることを指しました。「その額には小羊とその父の名」とは、私たちが間違いなく小羊の血によって買い取られ、贖いだされ、罪と滅びの中から救い出されて神のものとされ、神の確かなお守りの中にあるという印なのです。
彼らは神の御座の前で新しい歌を歌います。黙示録5章9節で、長老たちもその屠られた救い主小羊イエス様の御名を賛美する新しい歌を歌っていました。贖われた者のみが贖い主を賛美するのです。
悪魔と獣の前に膝をかがめ、身を地に投げて礼拝した者たちは力を失って地に倒れます。
天使たちが続々と遣わされ、鋭き鎌が投げられ、動かされ、刈り取りの時がやって来て、ぶどうの実が酒ぶねの中、踏まれてぶどう液が流れ出るようにして人々の血が流れるという恐ろしい描写があります。そうならないように、キリストの贖いが、流された血があることを心に留めたいのです。

 

◇2022年11月13日 黙示録13:1-18 「ほふられた小羊のいのちの書」
今日の個所では悪魔である龍が一匹の獣、そしてもう一匹の獣を指図して、権威を与え、力を与え、神への罵りに幾度となく燃えて、好き勝手の限りを尽くす姿が記されてあります。この獣の頭の一つは、かつては死に瀕するほどの傷を受けましたが、それも回復し、神を冒涜し、それなのに聖徒に戦いを挑んで勝つことを許され、地上のすべての民を支配する権威が授けられたり、人々の前で火を天から地に振らせることさえしました。
どうしてそんな権威と力が悪しき者に与えられるのか?滅ぼされかかったのになお倒れずにしぶとく暴れ回る悪の姿に、そしてその権力を有して力を有して神の民を踏みしめるその流れを見て、悲しい気持ちになります。そして全地の人々はその勢いに驚き恐れて従い、膝を屈して伏し拝み、礼拝するのです。どうしてそのようになってしまうのでしょうか。どうしてそのようなことが許されるのでしょうか。今日の個所の中に、龍がいかにも権威と力を授け、勝利を許され…と、龍と獣たちの支配する世の中のように書き表されていますが、与えられ、許されているのは、あくまで神様の御手からであることを忘れてはなりません。この地上は時に実に不可解な力に奪われ取られたかのように感じます。しかし、それでもなおそれは神様の御手の中に起こっていることなのです。  
私たちは小羊のいのちの書の中に名が記されている者として、忍耐と信仰に生きましょう。

 

◇2022年11月6日 黙示録12:1-18 「神の用意された場所」
私たちの生涯のうち、それは順風満帆の時ばかりではなかったことと思います。逆境の時、いたたまれずそこにとどまれない時。自分の居場所を追われ、失ったように感じる時。欠乏の時。このような困難の時が果てしなく続くのかと将来に暗雲の立ち込めるように思う時。そのような時、私たちは天地を造られた主からの救いを待ち望みます。主は場所を備え、食べる物を与え、時を定めておられます。ほえ猛る獅子の顔、食い尽くそうと牙をむく、敵である悪魔が火を噴いて殺そうと突進してくるその顔の前にも、神様の守りがあります。

悪しきものが世界に猛威を振るい、全世界は惑わされ、憎しみがあおられ、戦争や殺戮が繰り返され、伝染病は終わることを知りません。しかしその惑わしの司令官である悪魔には居るべき場所がありません。追われ、捕らえられ、地に引き落とされるのみです。彼の時は短く、何をしても的を外れ、これこそわが時、定められた良き時と喜ぶことはありません。彼にとっての時とは、常に追い落とされる裁きの時です。錯乱し、怒りに狂って光に属する者たちを訴え続けますが、小羊の地による贖いによって民は守られています。神の言葉とイエスキリストの証しを前に、悪魔はますます居場所を失います。苛烈な攻撃の中でも主の民は守られます。イエスの印を帯びる者はいつも攻撃にさらされますが、くじけることなく御国のために励みましょう。 

 

◇2022年10月30日 黙示録11:1-19 「いのちの息が神から出て」
いよいよ最後の7番目のラッパの音が鳴り渡ります。
その前に、神様は測り竿を渡して、神の聖所と祭壇とで礼拝している人を数えよと命じられます。ゼカリヤ2章でも同じような話があり、主ご自身が火の城壁となって町を守ると語られました。神の聖所で礼拝している人々、今日であれば教会で神を礼拝している私たちは、神様の測り竿の中で知られるところにあり、主ご自身が守り導いてくださると言うことが出来ます。
二本のオリブの木もまた、ゼカリヤ4章に登場します。これは二人の油注がれた人、神様によって聖霊に満たされて遣わされる人です。同じく4章6節にあるように、「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。」との、主の霊による証しの働きです。人の権力や勢いや能力によらず、神の霊によって証しはなされます。
二人の証し人は、口から出る神の言葉の勢いで(エレミヤ5:14)神に反逆する者たちに威力をもたらします。

しかし定められた時が来ると二人の証し人は殺されます。亡骸は野に捨てられ、これを見て神を憎む者たちは大喜びしますが、三日半の後いのちの息が神から出て彼らの中に入り、彼らを立ち上らせ、それを見た人々は非常な恐怖に襲われました。キリストをも復活させ給いましたこの神様こそ世界を統治するお方。その僕、神を畏れかしこむ者たちに報いを与えて下さるお方です。私たちも聖霊によってまた進みましょう。 

 

◇2022年10月23日 黙示録10:1-11 「もう一度預言せよ」
黙示録。ヨハネは天上に引き上げられ、神の玉座で彼にはイエス様や御使いや、見たこともないような生き物が次々と登場し、天変地異が語られ、ラッパの音を増すごとに世の終わりが近づくその恐ろしいさまが描かれます。
しかし聖徒たちはすでに命がけの大患難の中にありました。すでに多くの血が流され、踏みつけられ、迫害を受け、殉教していたのです。神を侮って止むことのない人々の狂乱がいつ止むのか。神の奥義、神の裁きが成就する時は、迫害の中にあったキリスト者たちにとっては安息が与えられる時なのです。
全地を股にかける巨大な御使いは獅子のように吠え、七つの雷が各々その声を発し、いよいよ最後のラッパが鳴らされる時が近づきます。「もう時がない」と語られます。
「わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。」ずっと甘みを感じていたのに、お腹の中では消化されると苦くなるのです。「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」(エレミヤ15:16)とありますが、お腹では苦くなる。そこに、それを信じぬくときの苦労と伝えるときの苦労があります。
しかし最後的な時が来たる前に主は「もう時がない」、「あなたは、もう一度、預言せねばならない」と語られます。忍耐をもって救いの時をもたらすためになお語れと命じられる主の姿を見るのです。

 

◇2022年10月16日 黙示録9:1-21 「備えておかれた四人の御使」
7人の天使のラッパのうち、すでに4人のラッパが鳴らされました。地上、海、水、太陽と月と星が打たれ、毒され、環境が悪化し、多くの人が命を落とします。
5番目のラッパと共に一つの星が落ち、底知れぬところへ通じる穴が開き、煙が立ち込め、いなごが出てきます。額に神の印のない者たちはさそりに刺されたような苦痛にさいなまれます。このいなごはサソリのような尾と針とを持ち、底知れぬところに王を頂くこのさそりの尾を持ついなごは人を激しく苦しめます。
ルカ8章31節では、ゲラサの地で男性を苦しめていたレギオンという悪霊が「底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。」とあります。底知れぬ所は悪霊たちの住みかです。そこに至る道が開かれ、そこから死ぬばかりに人を苦しめるさそりの毒を持ったいなごが群れを成して飛んでくると考えるだけでぞっとします。
6番目のラッパと共に、当時の人の人口に等しい2億もの騎兵がやってきて、その馬の口から出る火と煙と硫黄とにより人の三分の一が命を落とします。馬の尾は蛇に似ています。さそりも蛇も悪魔的な存在として描かれます。この上もなお悔い改めず、助ける力のない悪霊や偶像を礼拝する人たち。しかし、私たちは「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と言い得るのです。イエス様の十字架の救いのゆえに主をあがめます。

 

◇2022年10月9日 黙示録8:1-13 「聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった」
ついに7つ目、巻物の最後の封印が解かれます。いよいよ世の裁きと世の終わりが近づいて来ます。
「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」と語る殉教者たちの数は満ち、ついに神の裁きは訪れます。神様は悪をただ見過ごされる方ではなく、来るべき時にそれを裁き、清算をされる方であることを知ります。
半時間ばかりの静けさがありました。祭壇があり、御使いがいて、たくさんの香がありました。御使いはたくさんの香を焚き、そのかぐわしい香りと聖徒の祈りを祭壇へと導き昇ります。香の煙は御使いの手を通して、聖徒たちの祈りと共に神の御前に立ち上りました。
私たちの祈り、それは私たちの業であるとともに、神様の側からの力強く、かぐわしい助けによって、手助けを得て、神様の御前に立ち上ります。
七人の天使たちが一人また一人とラッパを鳴らすとき、地に災いが起こります。
使徒行伝2章にあるヨエルの預言は成就します。「主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。」 苦しみが、苦悩が、屈辱が地を襲います。弱者を食い物とする強欲で残忍なハゲワシでさえ「ああ、災いだ」と連呼します。このような時「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」との救いが成りますようにと祈ります。

 

◇2022年10月2日 黙示録7:1-17 「目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」
地の四方の風。それは地にも海にもすべての木にも吹き付けて、それを損ない、害し、虐げ、努力の甲斐なく不当に扱います。人生の行路にも、容赦なく吹きすさぶ悪しき風の猛威、害する働き、虐げを感じる時があるのではないでしょうか。しかし今は、風を引き止めて吹かせないようにしている守りの働きがあります。しかし、もうすぐそれを留めるものはなくなります。
「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」…今でもこの世界を吹き荒れる風は、私たちを十分に苦しめるものですが、しかし今はまだ引き止められているというのは驚きです。神のしもべらの額に印が押されるまでです。
そして、白い衣を着て主を力いっぱいに賛美する群れがあります。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」
神の言葉とその証しとのゆえに、迫害の艱難によって流れる彼らの血を、キリストはご自身の血で洗ってその衣を白くして下さいます。聖徒たちの苦しみのはるか前に、キリストの苦しみがあり、そして復活の勝利がありました。
「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。小羊は彼らの牧者となって、命の水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとく拭い取って下さるであろう」

 

◇2022年9月25日 黙示録6:1-17 「もうしばらくの間」
ほふられた小羊なるイエス・キリストのみによって開かれる巻物の封印がいよいよ一つ一つ解かれます。そしてこれから起こることが示されようとしています。
今日の個所では六つの封印が解かれますが、最初の四つの封印が開かれる時、前に出てきました四つの生き物が「来たれ」と言い、白、赤、黒、青白い色をした四頭の馬が登場します。弓と冠を与えられ、戦に明け暮れる者、大きな剣をもって地上から平和を奪い取る者、ききんを来たらす量りを持った者、地の四分の一を支配し、人を殺す権威をもった者、続いて神の言葉と証しとのゆえに迫害され、殺された人々の霊魂が見え、彼らは自分たちを迫害して血を流した者たちへの主の報復を願います。世に戦いと争いがはびこり、殺し合いの中平和が朽ち果て、飢饉が来て、いよいよ多くの人々の命が犠牲にさらされ、迫害もなお強まっていく…、そんな中、第六の封印が解かれる時、大地震と、天変地異に神の怒りを感じ取って逃げ惑う人々の姿があります。これらはすべて、人の愚かさのゆえに来る結果です。人のあらゆる不法の企てには、刈り取りが伴うことを教えられます。
人の欲のため、今も世界に戦いと争いと流血があります。不法があります。弱い者の血が流されています。迫害され、流される血を見て「もうしばらくの間」と主は語られます。今も封印は一つ、また一つと解かれ、終わりの時が近づいています。

 

◇2022年9月18日 黙示録5:1-14 「封印を解くにふさわしいかた」
前章から続きます天上での礼拝の姿から天の光景が示されます。天には御座があり、父なる神様が座られ、その周りに24人の長老が座り、四つの生き物がいます。今日は、玉座に座られる神様の右手の中にある巻物に視線が向けられます。その巻物には主がかねて言われた通り、「これから起こること」が記されていますが、その巻物の封印を解くにふさわしい者が一人もいませんでした。
ヨハネが激しく泣いていると、屠られたとされる小羊が登場します。小羊は勝利を得たので七つの封印を解き巻物を開くことが出来るのです。
私たちは弱く、罪に落ち、赦しも知恵もなくさまよい悲しみ、逃れ、激しく泣いていましたが、「その血によってあらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々を贖い、御国の民とし、祭司と」なさるお方が現れて、聖霊の助けを受けて御言葉を悟ることが出来るようになりました。
今までこの方、何千年もの歴史の中でこのお方の贖いによってどれだけ多くの人たちが救いに入れられたのでしょうか。無数の、数えきれない人たちが天で屠られた小羊に向かい、賛美と感謝と祈りと礼拝を捧げています。
「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」
私たちも、「天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのもの」と共に主に賛美を捧げましょう。

 

◇2022年9月11日 黙示録4:1-11 「栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた」
ヨハネの黙示録はパトモスに島流しにされていた使徒ヨハネにイエス様が語りかけられ記されました。アジア州の七つの教会に主は語りかけられた後、ヨハネの前に天の門を開き、天の教会の姿をお見せになりました。「御座」や「座」という言葉が10回以上出てきます。神様が中心におられ、前章にありましたように、「勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう」とある通りです。玉座にいますお方は碧玉や赤めのうのような輝きを放っています。24人の長老が御座の周りに座っています。すべての信じる者の代表です。
神の御座、そして御子、そして聖徒たち、そしてそこには神の七つの霊と呼ばれる聖霊がおられます。
そこに四つの生き物がいます。獅子のような生き物、雄牛、人のような顔をした生き物、空を飛ぶわしのような生き物、これらは自然界の生き物の代表です。生き物にはそれぞれ六つの翼があり、生き物の前後にも、つばさの表裏にも、目で満ちていました。これは何一つ見落とさず、見守っているという意味です。
この生き物たちは、昼夜絶え間なく、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」と語り、長老たちもまた冠を投げ出してひれ伏して神様の御座の前に賛美と礼拝を捧げます。これが天での礼拝です。地上では様々の問題や悩みがありますが、この礼拝が私たちを待っているのです。

 

◇2022年9月4日 黙示録3:14-22 「愛している者全ての失敗を明らかにして鍛える」
「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(へブル12:11)とありますように、間違いを指摘し、その状態から決別させ、成長させることは親心です。
未だ「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸」であることを見ずして、偽りに「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」と語る、現実を分かっていない神の子たち。話にならないお粗末さと大変な不幸を抱えて非常に不幸で嘆かわしい、裸の王様のように醜態をさらして勘違いをしている子らに対して、そのありのままの真実の姿を告げ、その低い有様から力強く引き上げるためにトレーナーとして、叱ったり、訓練したりすること、これは神様が私たちを非常に愛しておられるからに他なりません。
心の扉を閉ざして抵抗することも出来るでしょう。しかし、主は諦めずに私たちの心の扉をたたき続け、声をかけ続け、言われます。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」悔い改めは私たちの敗北ではなく、私たちが惨めになる事でもありません。惨めだからこそ悔い改め、心を入れ替えて方向転換するのです。何が悔い改めを拒否させるのでしょうか。素直に謙遜になりたく願います。

 

◇2022年8月28日 黙示録3:7-13 「少ししか力がなかったにもかかわらず」
ヒラデルヒヤは歴史の浅い小さな町でした。イエス様はこの町の信徒たちに「聖なる者、まことなる者」と自己紹介されましたが、聖であるということと、まこと(真実)であることという言葉は、神に対してのみ使われる言葉でした。
ダビデの鍵を持つとは、天にあるエルサレムの門の開け閉めの権能を持っておられるとの意です。「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた」小さな町のキリスト者たち。後にありますが、ユダヤ人を自称するサタンの会堂に属する者たちからの迫害にさらされ、常に破門、追放、つまはじきの困難の中に戦っていたキリスト者たちにとって、あなたが信じているイエス、私は神、天の門の鍵を持っていて「誰も閉じることのない門を開いておいた」と語っていただけるとは、何という安らぎと喜びでしょうか。それは、「あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである」のゆえでした。
困難の中で常に忍耐にさらされた小さな教会の信徒たち。しかし彼らはそのような状況の中でも決して主の御言葉を捨てず、主の名を否みませんでした。「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、…全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。わたしは、すぐに来る。」この主の御言葉を頼りとし、天に門が開かれていることを思い、励み進みたく思います。

 

◇2022年8月21日 黙示録3:1-6 「どのようにして受け、また聞いたか」
「あなたは、生きていると言うのは名だけで、実は死んでいる」との厳しい言葉が語られています。目を覚ましなさい、あなたのわざは完全ではない。どのようにして受けたか、また聞いたかを思い出しなさい。それを守り通し、悔い改め、常に常にそこに心を向け続けなさい。
眠っている者、死にかけている者たちを目覚めさせ、力づけ、生き続ける者でありなさい。神の御前に完全な業を行いなさい。
神様がイエス様の贖いにあって、どれほど大きな愛による業を行い、身代わりとしてイエス様はその身を、命を捧げて下さったのか。それを思い起こし、そこに思いを向け、その思いと、その感謝の思いから出た行動を守り通し、心の向きをいつもいつもイエス様に合わせ、悔い改め、進み続けること、その大切さを教えられます。
ルカ22章でイエス様はペテロが3度否むことを予告され、こう言われました。
「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」この祈りを頂き、主の愛と贖いを受けて、私たちは2コリント6章のように進むことが出来ます。

「人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり…」。

 

◇2022年8月14日 ルカ8:40-56 「恐れることはない。ただ信じなさい。」
今年も召天者記念礼拝にご参加くださり、有難うございます。コロナ、戦争、物価高…、苦しいことが怒涛のように押し寄せ、先行きがいよいよ不透明に感じられるこの頃です。
今日の聖書の個所にも、イエス様の来訪を待ち受ける群衆の姿があります。実に色々な生きるにあたっての困難にあって、群衆は殺到して押し寄せ、イエス様を取り囲み、願い事をしていました。
齢たったの12歳で死に瀕している少女、その少女の人生のすべての期間と同じ時を闘病に過ごしていた女性。熾烈な困難を抱えた人たちがイエス様の周りに集っていました。
少女の父は一刻も早く、手遅れにならないうちにイエス様を家に、娘の所にお迎えしたいと思ってイエス様を先導しますが、あまりにも多い人たちがその行く手を阻みます。そうしているうちに立ち止まってご自分のお衣に触れた女性を探すイエス様。そしてついに、娘が亡くなったという知らせが舞い込みます。
肩を落とす父親にイエス様は言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ。」「泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである。」「娘よ、起きなさい。」娘は即座に立ち上がりました。
イエス様は十字架にかかられ、罪の世の中にある、人のすべての罪を引き受けて下さいました。そして主は死から立ち上がられました。この赦し主によって、私たちもまた、死から即座に立ち上がることが出来ることを信じましょう。

 

◇2022年8月7日 黙示録2:18-29 「わたしのわざを最後まで持ち続ける」
エペソにニコライ、ペルガモにバラムとバラク、そしてテアテラにイゼベル。教会の中にも偶像と不品行がありました。初めの愛の行いから離れさせ、教会を無力にしようとする諸々の働きがありました。
「あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。」それなのに。足元から少しずつ崩れて、大きな砂の城全体が壊れていくように、危険が教会に迫っていました。
「女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている」良き存在として、預言者として近づき、信仰を骨抜きにしてしまう恐ろしい働きです。
「この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。…悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる」この偽預言者は多くの悔い改めの機会を与えられても悔い改めません。
「こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう」と主は語られます。
私たちは「土の器」のようにもろく弱いものです。「私たちの業」も色々な悪しき業に引き寄せられ、変質しかねません。しかし私たちは「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける」との主のお言葉にこそ望みを置きたいと思います。

 

◇2022年7月31日 ヨハネ2:12-17 「わたしに対する信仰を捨てなかった」
先週の個所では、主イエス様がスミルナの教会の苦難や貧しさを「知っている」と語られました。偽ユダヤ人達のサタンの会堂に属する者達に苦しめられ、悪魔はキリスト者を獄に入れ苦難を与えました。
今日の個所でも主は「知っておられる」とあります。「わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。」
またもやサタン、悪魔の存在です。ベルガモには多くの偶像があり、また皇帝崇拝の中心地でした。スミルナにしても、ベルガもにしても、様々な偶像礼拝のもと、悪魔に取り囲まれたキリスト者への迫害がありました。そのようなサタンの座の中にあって、「あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」それを見て、知っているよと主は語りかけられます。悪がはびこるままにはびこり、そこは「サタンの座」、苦しみと迫害の煮え湯を飲まされるその所にあって、しかしキリスト者は迫害を受けて十字架に死なれ、復活されたイエス様の御名を堅く持ち続けました。証しのゆえ殉教者が出る時にも信仰を捨てませんでした。「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」生けるパン、イエス様にある命に希望を得て進みましょう。


◇2022年7月24日 黙示録2:8-11 「死んだことはあるが生き返った者」
スミルナの教会。スミルナの街はエペソに並ぶ最も栄えた商業の街でした。街並みも美しく、海に伸びた大きな半島には良き港があり、その湾を見下ろす高台の丘には競技場がありました。
この黙示録が書かれてからおよそ60年後の紀元150年、使徒ヨハネの弟子であるポリュカリポスがこの競技場で火刑にされ殉教しました。
主がこの教会に、「初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者」と語られたことは、この殉教者のことを思う時、本当にぴったりの言葉であると思います。
「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)」 この「苦難」との言葉は、激しい苦しみ、重圧によって破砕されることを意味します。そして「貧しさ」とは、富んでいないという意味ではなく、全く無一物であるという事を意味します。その上にユダヤ人たちからの迫害のそしりに会い、にっちもさっちもいかない状況に陥っているが、あなた方は富んでいると主は語られます。

「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。」かの競技場では一時に千五百人、また別の時には八百人もの殺害がありました。その苦難は十日の間。十は完全数ですが、三十日も百日も続く艱難ではないことが語られます。有限の、区切りのある苦しみを経たときに、あるいは獄死に至る苦しみがあっても、いのちの冠があり、死後永遠の命が待っています。

 

◇2022年7月17日 黙示録2:1-7 「いのちの木の実を食べる」
「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者」、これは主イエス様です。これは主イエス様による手紙です。2節と3節とは掛け言葉になっています。
「あなたのわざ」と「(業に疲れてうんざりして)弱り果てることがなかった」、「労苦と忍耐」と「忍耐し続け」、「悪い者たちをゆるしておくことができず(我慢出来ないと思い)」と「私の名のために忍びとおして(私の名のために我慢して)」となります 。繰り返しにより、「疲れず倦まず労苦をする」、「忍耐・堅忍」、「悪に対して我慢せず、主の御名のためには我慢する」の大切さが語られています。
3つの点についてお褒めに預かったエペソの教会でしたが、「初めの愛から離れてしまった」と言われてしまいます。アルテミスの神殿にもひるまず主イエスの福音を証しし、銀貨5万枚分の価値のある魔術の本は焼き払われ、大きな力支えによって生まれたエペソの教会も、40年の時を過ぎ、歴史を積み、経験を積み、偉大な教会とみられても、肝心の主の愛から離れてしまっては教会とは言えないとの言葉はわたくしたちの心に迫ってきます。「思い出せ」「悔い改め、心を変え、罪から向きを変え、人生の道を変え」、「実行する」、これがいつでもわたくしたちに必要なあり方であることを教えられます。

 わたくしたちの前には「命の木の実」があるからです。イエス様が呪いの木、十字架につかれ、私たちにいのちを得させて下さったのですから。

 

◇2022年7月10日 黙示録1:9-20 「七つの星と七つの金の燭台」
「神の言とイエスの証しとのゆえに」エペソから海路14時間のエーゲ海のパトモスに島流しされた使徒ヨハネは、「あなた方の兄弟」であると語ります。その歳90歳を超え、主の愛された弟子としてイエス様にまみえ、愛され、主の弟子としてひた走った大使徒は、「共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている」と言いました。
自分は特別に偉く、耐えているとも言わず、兄弟であるあなた方と共に、神の言とイエスの証しとのゆえにイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっていると言いました。
そんなヨハネは主の日、御霊に感じると、後から大きなラッパのような音と、呼びかける声を聞きました。
振り向くと、そこには七つの金の燭台。それは七つの教会を象徴し、その間、その真ん中に人の子がおられました。かしらと髪の毛は白くきらめき、目は燃える炎のよう、その足は炉で精錬された光り輝くしんちゅう、声は大水のとどろき、右手には七つの星、口からは鋭い諸刃の剣、顔は強く照り輝く太陽…。この威厳あるお姿は山の上の栄光の顕現の時のようにまばゆく、ヨハネは死人のようになって主の前にひれ伏しました。しかし主は彼に手を置いて「恐れるな」と語られました。そして「私は死んだことはあるが、見よ、代々限りなく生きている」と語られました。七つの星と燭台、それは教会とその働き人です。それ自体に光はありませんが、主に照らされ、教会も聖徒も輝きます。

 

◇2022年7月3日 ヨハネの黙示録1:1-8 「やがてきたるべきかた」
今日からヨハネの黙示録に入ります。2019年の12月のコロナウイルスの発現以来、2月24日のロシアのウクライナ侵攻以来、世界はこれまでに経験したこともないような劇的な変化にさらされているように思います。
「世界の終わり」とも思われるような不吉なことが起こりゆく中、風雲急を告げる中、ヨハネの黙示録は書かれました。これは「イエス・キリストの黙示」です。神様がイエス・キリストによって与えられた啓示です。
「すぐにも起こるべきこと」が起ころうとしている時、信じる私たちはどのような備えをすべきか。事柄はどのようになって行くのか。この時こそ、再びこの黙示の書、啓示の書を紐解きたいと願います。
「時は近づいている」から、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである」とあります。この時こそ私たちは聖書の言葉に熱心に聞き、書かれていることを守り行い、進みたく願います。
「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかた」、「わたしはアルパであり、オメガである」お方から目を離さず、この混乱と苦しみの時を生きていきたいと願います。
「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」
このイエス様にある者は、悲嘆することはないからです。

 

◇2022年6月26日 ヨエル3:9-21 「しかし主はその民の避け所、人々のとりで」
ペンテコステの日、ペテロの説教の中に引用されたヨエル書にちなんで1章から読み進めてまいりました。
「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」いなごの襲いかかる中、神様、主に帰れ、主は災いを思いかえされ、思いかえして祝福を残し、礼拝のための捧げものを残しておいてくださると主は語られました。主に立ち帰る道を主は残して下さいました。
諸国によって苦しめられ、裁きを受けた神の民でしたが、主の日、ここに神様による民の回復と諸国への神様の裁きが語られます。
「主はシオンから大声で叫び、エルサレムから声を出される。天も地もふるい動く。しかし主はその民の避け所、イスラエルの人々のとりでである。
『そこであなたがたは知るであろう、わたしはあなたがたの神、主であって、わが聖なる山シオンに住むことを。エルサレムは聖所となり、他国人は重ねてその中を通ることがない。』」
「主はシオンから大声で叫び」、これはライオンが激しい勢いでほえる声であり、そのさばきの声に、今まで勢いのあった諸国の民も、天地も震えるとあります。そのように天地を従えさせる方が私たちの避け所であり砦であると語られます。知れ、私こそあなた方の神と主はお語りになられます。恵みと憐れみと慈しみにあふれるこのお方を信じて、今週も進みましょう。

 

◇2022年6月19日 ヨエル2:12-24 「主は災いを思いかえされる」
先週はヨエル書の1章を読みました。酒におぼれるように目に見えるものに酔いしれ、神を忘れる者たちのため、神様はいなごの大群を送られ、食べ物は絶たれ、祭壇にささげて神様を待ち望む供え物までも絶たれました。その時祭司に主は命じられ、泣き悲しみ、断食を布告し、聖会を招集し、主に向かって嘆きの叫びをあげよと導かれました。
「暗く、薄暗い日、雲の群がるまっくらな日」。1章にて、作物を荒らしていたいなごは、今度は人々の家に群れを成して押し入り、人々を苦しめます。「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」このような度重なる艱難の時、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
「主は言われる、『今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け』。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」
ふたたび断食と聖会が命じられます。祭司は泣いて言えと命じられます。そしりを受けて「『彼らの神はどこにいるのか』と言わせてよいでしょうか」と。そして主はねたむようにして、その民を力強く救われます。そして「あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る」との御言葉が輝くのです。

 

◇2022年6月12日 ヨエル書1:1-10 「主よ、わたしはあなたに向かって呼ばわる」
聖霊降臨の出来事の後、ペテロはヨエル書を引用して説教を行いました。
地はいなごによる大きな損害を受け、食べる物がなくなり、宮にささげる物もなくなり、そこには喜びも楽しみもなくなり、民も祭司も嘆き、泣き、そうして主に向かって呼ばわる時、「すべて主の名を呼ぶ者は救われ」、主による回復といやしが与えられ、霊が注がれることを語りました。
主は民の目を覚ますため、いなごを送られました。それは今までに起こった事もないようなすさまじい被害をもたらすものでした。それはかつて頑ななエジプトの王をこらしめられた出来事を思わせます。
「老人たちよ、これを聞け。すべてこの地に住む者よ、耳を傾けよ。あなたがたの世、またはあなたがたの先祖の世にこのような事があったか。
これをあなたがたの子たちに語り、子たちはまたその子たちに語り、その子たちはまたこれを後の代に語り伝えよ。」この出来事から何を学ぶのか。この悲惨から何を学び、どう子孫に語り継ぐのか。「あなたがたは断食を聖別し、聖会を召集し、長老たちを集め、国の民をことごとくあなたがたの神、主の家に集め、主に向かって叫べ。ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである。」災いから何を学び、その災いを、神様に向かって呼ばわり、向き直るための機会とするならば、聖霊の注がれる力と回復の時、飛躍の時を得ることが出来ます。

 

◇2022年6月5日 使徒2:1-13 「新しい酒に酔っているのだ」
「その後わたしはわが霊を すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまた わが霊をしもべ、はしために注ぐ。…すべて主の名を呼ぶ者は救われる。」との預言者ヨエルによる預言は成就されました。
主はヨエルに託し、こうも言われました。「見よ、わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたはこれを食べて飽きるであろう。… 地よ恐るな、喜び楽しめ、主は大いなる事を行われたからである。」
ペンテコステの出来事を見た人々はあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言いました。「酒」について、ヨエル3章にはこうあります。「彼らはわが民をくじ引きにし、遊女のために少年をわたし、酒のために少女を売って飲んだ。…わたしはそこに座して、周囲のすべての国民をさばく。

かまを入れよ、作物は熟した。来て踏め、酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪が大きいからだ。」この時の「酒」は、民の腐敗と裁きの象徴でした。民は腐敗と放蕩と罪の「酒」に酔いしれていました。しかし今、民に「新しい酒」がもたらされたのです。「酒に酔ってはいけない。…むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。」(エフェソ5:18) 

 

◇2022年5月29日 使徒1:3-11 「父の約束を待っているがよい」
時と言いましても色々あります。何時何分という事。現代生活は分刻み、早い者勝ちですとか、しのぎを削って時を争うことがあります。もう一つには「時期」という時の考え方があります。早いか遅いか、いつ来るかは分からないけれども、「その時」はやって来るという考えです。作物など、何月何日と毎年かっきりとは決まっていませんが、ちょうど良い頃合いの時期が毎年定まります。
「インスタントカメラ(ポラロイド)」や「インスタントラーメン」など、私たちは「今すぐに」出来るという事を好みます。待っていたくないという志向がどんどん高まっています。ですから、弟子たちが「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と、時を気にすることが理解できます。しかしイエス様は、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」と語られました。そして、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」と言われました。私たちはいつ、どういう状況で、私たちが欲しい者が手に入るかという事ばかり考えますが、神様は、良き物、約束されたものがあるから待ちなさい、国の復興、それも大事だが、神の国のことを思いなさい、それは「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで」広がり、あなたはそこで私の証し人となるのだと命じられるのです。

 

◇2022年5月22日 ルカ24:36-53 「聖書を悟らせるために心を開かれる主」
日曜日の夕方。イエス様はエマオの途上で弟子たちに近寄り、語りかけ、パンを割かれ、イエス様だと気づいた弟子たちは大喜びでエルサレムに取って返しました。そこにいた弟子たちも共に喜び、ペテロに主が現れた出来事を話し合いました。そうしていると、イエス様は彼らの真ん中にお立ちになり、「安かれ」と語られました。
「ああ主よ、ちょうどあなたと出会ったことを話していたところです」となったのかと思えば、彼らは恐れおののいて、幽霊を見ているのだと思いました。イエス様は言われました。「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」
私たちはどうしていつもこのような調子なのでしょうか。イエス様が近くにおられるのにそうと気付かず、自分の心配や不安や疑問ばかりを盛大に心の中に展開しているのです。主に明るく燃やしていただいてもすぐにまた冷え切ってしぼんでしまう心。あまりのその有様に、ついさっき出会った主のお顔も忘れて幽霊だと思ってしまうのです。
私の肉と骨を見て触りなさい。魚を食べる姿を見なさい。そしてまた主は御言葉から語られます。悟ることが出来るように彼らの心を開いて御言葉を語られます。私たちは心を開いて、不安や疑いを取り出して放り投げ、心の中に御言葉を頂き、主の贖いによる救いの中、力強く生きたいと願います。お皿の上を見ましょう。そこには主が召し上がった魚の骨が置いてあります。

 

◇2022年5月15日 ルカ24:13-35 「私たちと一緒にお泊り下さい」
主のお姿は見えなくても、主はいつも弟子たちと共におられました。そして必要なタイミングでお姿を現されました。
クレオパらはエルサレムからエマオの村へと歩いていました。道々彼らはイエス様の空になったの墓のことを話していました。イエス様が一緒に歩かれましたが、彼らはイエス様に気付きませんでした。
彼らは悲しそうな顔をして、悲観的で、憂鬱で、期待が持てないと、立ち止まって言いました。「ナザレのイエス、あの方は、わざにも言葉にも力のある預言者でした」「イスラエルを救うのはこの人であると、望みをかけていました」「ところが仲間である数人の女性が私たちを驚かせました」「御使いが現れ、『イエスは生きておられる』と告げ、果たして女性たちが言ったとおり、イエスは見当たりませんでした」この過去形の言葉の羅列は、彼らが新しい素晴らしい出来事を信じず、結果として過去につながれているがままであることを明らかにしていました。
「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。」イエス様の溌溂としたお声が彼らの止まった時計の針を動かします。イエス様は御言葉からご自身のことを話されると、彼らの心は燃えました。彼らはイエス様を引き留め、乞い願ってイエス様と共に家に入りました。そうして彼らは気付きました。私たちも御言葉を蓄え、見えなくても共におられる主と共に溌溂と生きたく願います。

 

◇2022年5月8日 ヨハネ21:15-19 「わたしを愛するか」
イエス様は、「子たちよ」と言って舟の中の弟子たちに語りかけられました。主は彼らが空っぽの舟の中にいることをご存じでした。生きる悩み、現実の苦しみ、欠乏と恐れと不安…。イエス様はすべてをお見通しでした。トマスの信じたいが確信が持てないとの叫びをも、分かっていて下さいました。イエス様はシモン・ペテロに語られます。「私を愛するか」。若かった時には何でも自分のしたいがままに生きることが出来た。しかし年を取ると、自分の行きたくないところに連れて行かれる。そのための心の準備は出来ているか。そこまでしても、私に従い通すことが出来るか。そのようにして、私の大切な小羊を守り抜くことが出来るか。恐れと恐怖と迫害と、不安の中にあっても、私を愛し続けることが出来るか、従い通すことが出来るかと、イエス様は一歩一歩ペテロに心構えと決心を固めさせて下さっている、それがイエス様が三度までペテロに「わたしを愛するか」と問われた真意なのではないでしょうか。
「あなたはこの人たちが愛する以上に私を愛するか」。彼はかつて、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と言っていました。彼には確固とした自負がありましたが、それはもろくも崩れ去りました。しかしイエス様は、何度ペテロが失敗しても、また新たに「わたしを愛するか」と尋ねて下さる、これは彼に機会を与えて下さることなのです。

 

◇2022年5月1日 ヨハネ21:1-14 「主であることが分かった」
先のことは分からない。それが私たちというものです。弟子たちは一生懸命、盛んに網を下ろして漁をしましたが、何も取れませんでした。しかし、しばらくして、その網がはちきれそうに魚で一杯になろうとは、そしてその網を下ろす湖の水の中にペテロ自身が飛び込むことになろうとは、そしてその虚しい朝が喜びの朝になろうとは、彼らは思いもしなかった事でしょう。
「子たちよ、何か食べるものがあるか」。いつも主が私たちの孤軍奮闘のさまを見つめて、「子たちよ」と熱い視線をもって見ていて下さるお方を私たちは人生の原点に据えているでしょうか。
孤独があります。困難があります。虚しさと疲労があります。飢えと欠乏があります。戦いと悲しみがあります。しかし、わたくしたちは、イエス様が、父なる神様が「子よ」と私たちを見ておられることを忘れずに進みたいと願います。ヨハネと共に、「主です」と、私たちの生活の現実の中に生ける主を見出すこ とが出来るようにと願います。
私たちが、数年前の私たちに何かを語る事が出来るとしたら、どんなことを伝えるでしょうか。先のことを心配しているね、でも大丈夫だから神様を信じて平安でいなさい、神様を信じて全力で精いっぱい信仰のうちに行きなさいと伝えるのではないでしょうか。
それにもまして今日、神様は私たちに語り掛けて下さいます。「私が主だ。子よ、恐れることはない」と。

 

◇2022年4月24日 ヨハネ20:19-31 「安かれ。私もあなたがたを遣わす」
先週は喜び溢れる主の復活をお祝いするイースター礼拝でした。しかし今日の聖書の個所では、戸にしっかりと鍵をかけて恐れおののく弟子たちの姿があります。「戸が閉ざされていた」この言葉が今日の個所に2回見られ、弟子たちの傷心が現れています。
しかしイエス様は二度までもその施錠され閉ざされた扉をかいくぐり、弟子たちの真ん中に立って言われます。
「安かれ」。平安、平和が、調和があるように。平安の風が流れて調和のハーモニーが奏でられますように。弟子たちの心は喜びにあふれました。
イエス様はその時、「あなたがたを遣わす」とおっしゃいました。この平和と安らぎのハーモニーは、私たちの共同体の中だけで閉じ込めているべきものではないのです。私たちは戸に堅く鍵をかけて、外界を恐れて隠遁すべき民ではないのです。
主は息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と語られ、私たちが罪を赦す使者として遣わされていることを伝えます。

そしてここに、祝福に乗り遅れたトマスがいました。皆が熱く語っても信じない、自分の目で見なければ信じない強情者でしたが、強く信じるためには確信(確証)が必要でした。彼は見て信じました。弟子たちはこの時もまた鍵をかけていましたが、恐れなく、命を懸けて家の外に走り出すときは刻一刻と近づいていました。聖霊を受け、世の罪が赦されるため、御子の名が信じられるように!弟子たちの躍動が始まります。

 

◇2022年4月17日 ヨハネ20:1-10 「死人のうちからよみがえるべきお方」
イースターおめでとうございます! イエス様のあのむごたらしいお苦しみを覚え、心が張り裂けるような気持でしたが、日曜日の朝とともに、主の遺体のあった墓は死の雰囲気が全くなく、復活の勝利の栄光に輝いています。次の聖書の言葉は、違わずに実現しました。
「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。」(詩篇16:10)
「それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。」(エゼキエル37:12-13)
百合の花は3月から4月に咲くことから、イエス様と、その復活を連想させる花とされてきました。長く寒さの中を耐え抜き、定められた時に力強く花を開かせる命の力強さを感じます。主の勝利のラッパを連想させます。
「わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」
(1コリント15:51-52)

 

◇2022年4月10日 ヨハネ19:23-37 「自分が刺し通した者を見る」
ついに受難週に入りました。渇き、憎しみとののしりと好奇な視線の渦の中に置かれ、衣服ははぎとられ、ローマの兵士たちの分捕り品となりました。しかしすべては詩篇22篇の御言葉の預言する通りでした。「同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、…彼らは…私の渇いたときに酢を飲ませました。」(詩篇69)
時は金曜日。過越の祭りの準備日であり、その日の日没からは安息日に入る時であり、また過越しの祭りの第一日となる日でした。
エルサレムの神殿では過越の祭りを迎える礼拝をし、神殿で過越の小羊が屠られたのがちょうどイエス様が十字架上で息を引き取られた午後三時頃でした。各家庭でもなされる過越の祭りでは、「その骨を一本も折ってはならない」との定めがあり、十字架上のイエス様のお身体も、骨一本折られずに、御言葉が成就するところとなりました。
ゼカリヤ12章にはこの御言葉があります。「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」
イエス様が十字架にかかられたのは、「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」であり、そのために犠牲となって下さった方を、自分の罪のためと嘆き悲しみ、そのようにして「その刺した者を見る時」にその救いは成就するのです。

 

◇2022年4月3日 ヨハネ19:1-16 「カイザル以外に王はありません」
「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」という詩編69:4の御言葉は成就し、イエス様は迫害を受けられました。イエス様が語られた通り、弟子たちは悲しみに暮れ、散らされ、イエス様は一人取り残されます。しかしその悲しみの中にもイエス様は喜びと慰めの予告をしていて下さいました。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネ18章、果たして弟子たちは散り散りに逃げ、一人イエス様について行ったペテロも3度まで主を否みました。弟子たちは全滅かと、悪魔の高笑いが聞こえるかのようです。
ユダヤ人の祭司長たちは、自らが本当にあがめるべきであるイエス様をピラトの手を借りて亡き者とするために躍起になっています。彼らは死刑に処する権限をローマ施政下に与えられていませんでした。
ピラトの目にはイエス様には何の罪も見いだされませんでしたが、ユダヤ人の祭司長たちは執拗にイエス様を死罪にしようとしました。
ピラトはイエス様の言葉に自分に勝る権威を感じ、助けようとしますが、民は「私たちには、カイザル以外には王はありません」とまで言ってイエス様を殺そうとしました。神の民が自らの主を捨てて理由なしに自らの神を憎み、捨てるという事はなんという悲劇でしょうか。人の徹底的な堕落の姿が表されています。その罪の為、主は自ら進んで十字架に着かれたのです。

 

◇2022年3月27日 ヨハネ16:25-33 「勇気を出しなさい」
先週は、「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」との御言葉を頂きました。私たちが帰るべき所、所属すべき所を指し示してくださいました。その後イエス様は弟子たちに襲いかかる迫害を予告されました。「あなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。」(16章2節)

イエス様は去って行かれ、そして大きな迫害の時がやってきます。これを聞いて弟子たちの心は憂いに満たされますが、イエス様はご自身が父なる神様のもとに行けば、弟子たちに助け主なる真理の聖霊が与えられるから益になると語られます。「あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。」(20節) 産みの苦しみの後で誕生を見る時、苦しみは消えてなくなり、苦しみの欠片もなくなるように、喜びがやって来るように、イエス様との再会の時がある。「わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」私は父のもとにいるから、私の名によって願うことを父は聞いて下さるとイエス様は語られました。しかし弟子たちは散らされていきます。イエス様は捨て置かれているようになりますが、独りではありません。父なる神様が共におられます。十字架は敗北ではなく、勝利でした。艱難、孤独、悩み、しかし私たちは独りではありません。勇気を出しましょう。

 

◇2022年3月20日 ヨハネ15:1-17 「行って実を結び、実が残るように」
「わたしはまことのぶどうの木」との有名な個所です。ここで言う「まことの」とは、「頼ることのできる」という意味もあります。
そういうお方に「つながっていなさい」と主は語られました。ちょうど枝が幹から離れては何も実を結ぶことができないように、私の愛のうちにとどまり、つながって、実を結ばせなさいと主は語られます。
今日の個所にも「わたし」「あなた」「私の父」との言葉がたくさん出てきます。この関係の中に「つながって」いなさい。繰り返し、10回以上にわたって、この言葉が語られます。
また、実を実らせるという事が大切な概念として語られています。戒めを守るという事も記されてあります。「実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞ」くという言葉は、ともすれば、私たちに恐れを引き起こします。
しかし私たちはイエス様の言葉を、それを守らなければ裁くという恐怖の言葉としては聞きませんでした。
「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるため…わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 主は自ら進んで命をささげ、その愛を知らせて下さいました。そして私たちを友と呼んでくださいます。主と共に行き、今週も信仰の結実が与えられるのです。

 

◇2022年3月13日 ヨハネ14:1-14 「神を信じ、私を信じなさい」
今日の箇所ほど何度となくイエス様が直接的に「私を」と語られるところはありません。
私たちは長らく「信仰」という事を考えてまいりました。それは難しいものではなくて、ストレートにイエス様というお方を個人的に信じ続けるという事です。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
「わたしのおる所にあなたがたもおらせるため」、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」、「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。」「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。」、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。」、「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。」わたし、わたし、私を信じ、私に来たれ。私を知り、私に語り掛け、私の名を呼ばわり願え。そうすればそれは父に知られるだろう。叶えられるであろう。私がなしたよりも大きなわざを成すだろう。だから神を信じ、私を信じなさい。それが生きる道だ。真理だ。命だ。私を信じて私と共に進みなさい。簡単なことだ。難しいことではない、と主は語られます。

 

◇2022年3月6日 ヨハネ6:60-71 「人を生かすものは霊」
「このことがあなたがたのつまずきになるのか。…人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」との鮮烈な言葉が記されてあります。これは、それまで主に聞き従ってきた人たちが「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」とつぶやいて語ったことへの主のお言葉です。
つぶやきとつまずき。そしてこんなひどいことがあってなるものかとの私たちの嘆きがあります。主が生きて自分の前におられてもなお、ぼそっとつぶやかずにはいられない、「ひどい」と思われる状況があります。どうやってそんなことを理解できようかと思い、限界に達して「多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。」という結末に陥ることもあります。しかし私たちは心静かに、主のこの御言葉を再び味わいたいのです。
「このことがあなたがたのつまずきになるのか。…人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」
私たちの生まれつきの性質、肉の性質は何の役にも立たないのです。神のお言いつけに背いて、「目には美しく、賢くなるには好ましい、目が開け、神のように善悪を知る者」になる実を食べて、本当に人は目が開けたのでしょうか。ただ生意気になって無知のゆえに真理を遠ざける者となったのではないでしょうか。私たちはいつも主の贖いにより、永遠の命の言により頼んで生きてまいりましょう。

 

◇2022年2月27日 ヨハネ6:41-59 「わたしは命のパンである」 
イエス様による給食の奇跡の後、人々は「食べて満腹した」がゆえにイエス様の後を追い続けました。エデンの園で人は神の言葉に信頼するよりも蛇の言葉に信頼し、神との関係に破綻したとき、「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」とのさばきを受けました。労せずしてパンにありつくことが出来るという事は、人がもともと神の園で得ていた幸せでしたが、それを失ったのは人が神様の御心に沿わない的外れの(これこそが「罪」のもともとの意味)所業を行ったがゆえでした。
「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。」とイエス様はおっしゃいました。人は生きるためにパンを求め続けますが、根源的に人は生きるために神様との良き関係を取り戻さなければならないのです。
「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」…これは、イエス様がご自身のからだと血といのち、それら全てを捧げて私たちのために身代わりとなって贖いを成してくださることによってもたらされる救いと永遠の命のことを語っておられるのです。神様のことを忘れて的外れに突き進む私たち人間が正気を取り戻して進むために、イエス様のいのちにあずかる必要があるという事を日々心に留め、主の贖いによって生かされている恵みを思い、神の前に謙遜に進みたく、改めて願います。


◇2022年2月20日 ヨハネ6:26-40 「子を見て信じる者はことごとく永遠の命を得る」
イエス様は先週の個所で、「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」とおっしゃり、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」とも話されました。
民は、モーセが天よりのパンを取り次いで民を養ったように自分たちにもいつも糧を供給してほしいと願いました。しかし父なる神様が私たちの日ごとの必要をご存じで、空の鳥、野の草をも養っておられ、私たち人間に良くして下さることは明白です。しかし民は、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか」と詰め寄ります。
人は神様を信じることが出来ないという徹底した欠陥を持っています。その、常に近視眼的で、信仰に至ることのできない、的外れに生きる民のため、イエス様はこの世に命を与える神のパン、天からのまことのパン、命のパンとなって下さいました。

「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」この破格の恵みを神様は下さいましたが、民はイエス様を見ても信じませんでした。「自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行う」という事は、人の力では出来ず、神に選ばれた者のみが出来ることです。これこそが主のよみがえりにあやかって生きる生活です。

 

◇2022年2月13日 ヨハネ6:16-27 「永遠の命に至る朽ちない食物のために働け」
人々を青草の上に座らせ、良き羊飼いは父なる神様への全幅の信頼をもって祈りをささげ、飢える民を食べさせました。人々はイエス様を担ぎ上げうとしましたが、イエス様は退かれました。イエス様は祈るために山に退かれ、弟子たちだけが船に乗りましたが、「強い風が吹いてきて、海は荒れ出し」、漕ぎあぐねていました。「どうしてこのような危機の時に主はここにいて下さらないのだろう」と弟子たちは不安になったでしょう。
どうしてあの時はパンを有り余るほど給食して私たちを喜ばせて下さったのに、今この必要な時に居て下さらないのか。しかしそれは主による信仰の訓練の時でした。
主は湖の深い水を乗り越えて、水の上を歩いて弟子たちの船に近づかれます。弟子たちは幽霊を見ているかのようにびっくりし、慌てふためきます。自然界の猛威の中、自然界の定めを乗り越える主の出現への恐れは、生死の恐れと異なるものでした。マタイ福音書では、。ここで主のお許しによって水の上を歩いたペテロの姿をも記されています。
イエス様を舟にお迎えした時、すぐに彼らは目的地に達しました。群衆はいまだパンの奇跡に酔いしれて主を探しています。しかし主は、パンと湖の奇跡を通して、人は朽ちる物(日ごとの糧)によって生かされるけれども、今や糧が備えられ、危険からも守られ、主と共に新たな目標=心配なく神様のみ旨のためにに進むこと=を教えられました。

 

◇2022年2月6日 ヨハネ6:1-15 「どこからパンを買ってきて食べさせようか」
ベテスダの池でのいやしの後、イエス様はガリラヤ湖の向こう岸に渡られました。するとその向こう岸にもイエス様の癒しを見聞きした人たちがいて、大勢の群衆がイエス様についてきました。山に登っても、山の向こうから、山を越えて上から人がイエス様に会うために降りてきます。そこに集まった人は男性だけで五千人でしたから、女性をも含めれば一万人にもなったのでしょうか。この人数は一クラス40人の学級であれば。250クラス分。6学年に分けても1学年で42クラス。とんでもないマンモス校です。病や困難の中、多くの人々はイエス様に頼るしか生きる道がないという人たちでした。草の多いフカフカの場所が即席レストランとなりました。
「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」今日の庄原市内でも、一万個のパンを急きょ用意するのは難しいでしょう。一人百円でも一万人では百万円かかります。困るピリポ、そしてアンデレは少年の5つのパンと2匹の魚があるが、こんなに多くの人には何になりましょうかと語ります。
イエス様はその食べ物を手に取り、感謝の祈りをささげると、人々が満腹してもなお12のかごに余る糧が得られました。草原で、素晴らしい羊飼いが群れを養ってくださるこの美しい光景。私たちも、主に出会ってから養われ、守られています。そしてパンはなお12のかごに一杯に余っています。この恵みを伝え、分かち合いたいと願います。

 

◇2022年1月30日 ヨハネ5:31-47 「神が遣わされたものを信じるなら」
「神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。」(38節)という御言葉には、心を刺されます。
「聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」や、「しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」、「 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。」という御言葉の数々を読むにあたり、胸が痛みます。 律法をくまなく調べ、永遠の命を得ようと調べ上げ、御言葉を守っていると確信しながらも、「神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。」という事を知る時、自分本位の信仰では事を成さないのだという事を教えられます。
「ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。」 預言者である洗礼者ヨハネの出現は、救いの到来を期待させ、人々を熱狂させましたが、彼を良しとしない悪しき王によって取り去られました。人の世は暗く、一時の希望の明かりは吹き消されました。しかしイエス様の光は、吹き消されてもなお復活し、信じる者に永遠の命を与える神の救いの光です。私たちはただこの遣わされた方のみを見つめて今週も過ごしましょう。


◇2022年1月23日 ヨハネ5:19-30 「死から命に移っている」
今日の聖書の個所は一節一節が階段のように昇り、ピークを迎えて折り返し下っていくように、初めの節と後の節がそれぞれ一対に組み合わされるような、強調の形をとっています。19節と30節が一対、20節と28節、21節と29節、22節と27節、23節と26節が一対となり、24節と25節にピークを迎えます。初めに出て来る節と、後の節の内容は似ていますが、後の節は、より意味が深くなっています。
19節、「自分からは何事もすることが出来ない」とありますが、30節では、「遣わされた方のみ旨を行い、それは正しい」との深みがあります。
20-21節、「わたしは父よりも大きな御業(心にかなう人に命を与える)を行う、あなた方が不思議に思うため。」しかし28-29節には「驚くには及ばない。神の子の声を聞けば善を行った人は命を受けるためによみがえる。」と、ここでも意味を深めて、神の子の声を聞く時、善を行った人が命を受けるのは神の定めで、驚くことではないと語ります。
子にさばきを委ねられたという強調と、子が父と同様の力と権威を与えられているがゆえに敬われるべきことが語られ、ピークの所では、「よくよく言っておく」との後で、わたしの言葉を聞いて、遣わされた方を信じるならば、罪に死んだ人たちは永遠の命を受け、裁かれず、死から命に移り、生き続けるという事が語られています。イエス様が救いの中心であることがここには語られています。

 

◇2022年1月16日 「私の父は今に至るまで働いておられる」 ヨハネ5:1-18
「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと計るようになった。」とありますが、イエス様の宣教は、命がけでした。ご自身の民は分からず屋で、こともあろうに祭司長、律法学者たちが造り主なる主に盾つくのです。「イエスは旅の疲れを覚えて」(4:6)渇きを覚えられますが、出会ったサマリヤの女性は心からメシアを待ち望み、イエス様との出会いを喜び、水がめを置いて人々に告げ知らせました。 
イエス様は逆境の中にご自分の使命を深く知らされ、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」と語られました。遣わされ、支えられているご自身の身の確かさを確認されました。
今日もベテスダ(あわれみの家の意)の池で奇跡が行われます。38年臥せっていた人がいやされます。ずっと38年間、彼を助けて水の中に降ろしてくれる人を探し続けましたが、いませんでした。次から次から後の人に追い越され、寂しい、くやしい思いをしていたこの人。その人に「なおりたいのか」とお聞きになられるイエス様の言葉も不思議です。      
「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」
あたかも健康な人に対するように、事も無げに語られるイエス様の言葉。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」
神様の癒しと慰めは今も行われます。私たちも、遣わされて働いて参りましょう。

 

◇2022年1月9日 ヨハネ4:43-54 「あなたの息子は助かるのだ」
カペナウムからカナまでの道。それは高度差400メートル、40キロメートルの旅、わが息子が助かるためにとの父親の深い思いがあります。「あなたがたは、しるしと奇跡とを見ない限り、決して信じないだろう」とのイエス様のお言葉は、死に瀕したわが子のために険しい道を急ぎ上ってきた父親には酷な言葉だったのではないでしょうか。信じていなければ、死に目にも会えないかもしれない、過酷な旅を思いつかなかった事でしょう。イエス様にはその父の心、必死の心、ご自身にかけるこの父親の心はしっかりと伝わっていたことでしょう。
「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」との言葉は、ヨハネ1:11のこの御言葉を想起させます。「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。」
「自分の故郷では敬われなかった」とは、神殿のあったエルサレムでのこと、そして造り主を受け入れないこの世界全体の民を指すと思います。
「わが子を助けたい」との気持ちがひしひしと伝わるこの個所ですが、それは私たち人類すべてを救いたい父なる神さまのお気持ちをも思い起こさせます。そのために愛するひとり子を、むごたらしい十字架刑のところにおささげになられた父なる神様の深い深いご愛に心を留めましょう。「あなたのむすこは助かるのだ」、この言葉に、「私はわが息子を助けるのだ」との父なる神様の深いお気持ちが表れています。

 

◇2022年1月2日 ヨハネ4:9-38 「自分では労苦しなかったものを刈り入れる」
かつての北王国の首都サマリアでの出来事です。捕囚の後、サマリアの住民は他の土地に移され、他民族がこの地に入植し、人種的に混血の国となりました。南王国ユダもバビロン捕囚に遭いましたが、そのようなことは起こらなかったため、ユダヤ人はサマリア人を蔑視しました。ユダヤからガリラヤに行く際、ユダヤ人は近道であるにもかかわらずサマリアを通ることはありませんでした。その上、ユダヤ教のラビ(教師)は女性に話しかけることはありませんでした。そこでこのサマリア人の女性は自分に話しかけられて驚きます。さらに、見ず知らずの人が自分の夫とのことについて言い当て、さらに驚きます。彼女には人を避けなければならないほどの遍歴があり、それは灼熱の昼の12時に井戸に水くみに行く事から明らかでした。
イエス様は民族をも、性別をも、人前に出られない罪の有無と関係なく、一人の人を求めて福音を告げ知らされます。
過去のいきさつ、民族の堕落、不道徳や失敗、これらから判断されれば神の前に出るにふさわしくないとされ、正しい礼拝を捧げられるのは限られた人だけだと考えられていたのが、今やキリストの贖いによって、悔いるまことの礼拝者により分け隔てなく捧げることが出来るるようになりました。それこそが主を遣わされた方の御心、一粒の種を蒔いて多くの人を救い、まことの食べ物である「命のパン」が与えられる出来事でした。

 

◇2021年12月26日 ルカ2:26-40 「私の目は今あなたの救いを見た」
「正しく信仰深く、イスラエルの慰められるのを待ち望む」聖霊によって導かれたシメオンと、「宮を離れずに夜も昼も断食と祈りをもって神に仕える」、聖霊によって導かれるアンナが登場します。

この二人の登場人物から、聖霊に満たされた人の特徴を紐解きたいと思います。「正しい」とは、神の標準、意思、御性格に従い、順応し、合致し、適合し、同一化することを意味します。いつもお師匠様を目の前に頂き、憧れ、感化されたいと願う熱き生き方です。それが信心深い敬虔な生き方であり、神様は生きておられ、お言葉は必ずなるという信仰です。そういう人の思いがどこに向かうかと言いましたら、それは信仰共同体全体の慰めと救いです。未だ未完成であり課題を多く持ち、引き上げられるようにとの渇望の祈りがあります。慢心はありません。こういう人には、聖霊によって、「生きているうちに必ず救い主に出会う」という啓示が与えられます。「わが目が救いを見るまでは、わが祈りが聞かれるまでは死ねない」との強い祈りの中、民のための救いを見、彼は安らかに去ります。彼は夜の見張りの交代者が現れるまでは決して仕事を辞めないと目を見開く人のように祈り続けました。そして「み言葉のとおりに」救い主に出会いました。状況は暗く悪くとも、主の救いのお約束を信じて救いの到来を信じて祈り続け、この目で見るまではと、夜も昼も祈り続けたく願います。

 

◇2021年12月19日 ルカ2:1-21 「恐れるな。見よ、大きな喜びを」
紀元前1200年頃。「イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。」この暗黒の時代、ベツレヘムに飢饉が起こり、モアブの地に避難したナオミの出来事がありました。主は憐れみを忘れず、一切を失ったかに思えたナオミの元にいたルツを通して祝福を現して下さいました。ここからダビデが子孫として生まれました。
マリアの時代も人々は神を忘れ、思い高ぶり、格差と貧しさがありました。しかしそのマリアに、ヨセフに、ザカリヤに、エリサベツに各々語られた主の言葉は「恐れるな」「心配するな」でした。
民の堕落と世の腐敗、絶望と恐れ、しかしその中にも主は救いの御業を着々と起こしてくださいました。
夜も昼も番をして羊を守る牧者たちは尊い仕事でしたが、衛生規定も礼拝をも守れず、卑しいものとされていました。しかし彼らが最初のクリスマス(主の礼拝)の礼拝者となりました。救い主がなぜ飼い葉おけの中に?それは彼らが主を見つけるためのしるしでした。
すべての事には時があり、すべての事には意味があります。主の救いは今日も続いています。「恐れずに」目を見開いて、これからも主の下さる大きな喜びをご一緒に見せていただきましょう。

 

◇2021年12月12日 ルカ1:39-56 「わたしに大きな事をしてくださった」
詩篇8篇でダビデは語りました。「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」
今日の個所でマリヤもまた、心の底から、自らを見出して下さった神様をたたえています。「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。」と語りました。マリヤはどうして自分のようなものが救い主の母となるように見いだされたのだろうかと思いました。彼女は身分が低く、貧しく、飢えていました。権力ある者でも富んだ者でもない彼女はどうして私が?との思いの中にずっといましたが、エリサベツによるこの一言で心が解き放たれます。
「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」…なぜ私が?という思いから、主のお召しならば必ず成就する、大丈夫だ!との思いに変えられたのです。むしろこの貧しく、身分の低い私だから選ばれたのだ。私を選び、私と同じ境遇にある人々をも喜ばせて下さるんだ、そのために私に大きな事をしてくださったんだと彼女は悟ります。今まで世に君臨していた恐れるべき権力ある人々の姿は霧散し、 わたくしに目を留めて下さる方が目の前にズームアップされました。
「そのあわれみは、代々限りなく 主をかしこみ恐れる者に及びます。」力ある主をのみ見上げて待ち望みましょう。


◇2021年12月5日 「恐れるなマリヤ、神にはできる」 ルカ1:26-38
平凡な暮らしをしていた少女の人生は激動を迎えます。
「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。深く困惑し、悩ましい気持ちになったマリヤでした。これはどういった意味の挨拶なのか。しかし彼女はいたずらに天使の出現を恐れたわけではありませんでした。天使が何をもって自分が恵まれていて、喜ぶべき状態にあるのか。今までは考えもしなかった事、主がそんなにも身近に、一少女である自分と「共におられる」ということをどのようにして考えたらよいのかを考えていました。
「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みを頂いているのです。見よ、あなたは身ごもって男の子を生むでしょう。…」
突飛な出来事です。主が共におられ、自らが恵まれていて、喜ぶべき出来事とは、そんなにも突飛で、考えもつかないことなのでしょうか。
ザカリヤは、「どうしてそんなことが私に分かるでしょうか」と、自分には理解できないとはねのけましたが、マリヤは「どのような方法でそれは起こるのですか」と答えました。ザカリヤは起こらないことを前提にして考えましたが、マリヤは起こることを前提として考えました。
「神には何でもできないことはありません。」突拍子もないことを、神様はなさいます。神様は私たちと共におられるからです。私たちは恵みを受けているからです。私たちもお言葉通りなりますようにと祈りましょう。

 

◇2021年11月28日 ルカ1:5-25 「神のみまえに立つガブリエル」
いよいよアドベント(待降節)に入りました。来週、再来週、そしてその次の週がクリスマス礼拝です。今年も主のご降誕をお祝いする心の、信仰の準備を整えましょう。
いつも不思議に思うのは、なぜ神の御前に正しい人、主の戒めと定めとを、皆落ち度なく行っていたザカリヤが、あのようなことになってしまったのかということです。
現れるはずのない天使が突然現れ、話しかけられるということは恐怖であったに違いありません。しかし私たちは、ここに一つの教訓を得ます。それは、「神を畏れて、恐れるな」ということです。主を畏れかしこみ、主がどんなにか奇想天外な事を導かれたとしても、自分の周りの状況に恐れたり、主を疑ったりしてはならないということです。  
ザカリヤはある意味常識的な人でしたが、主にとっては不可能も易々と可能に変えられるという事を固く信じるということが「主を畏れる」ということ、それが「神の御前に正しい」ということです。
天使は言いました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされた…時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから…」。彼は神の御前にあり、神様が彼自信に託された言葉はザカリアに絶対に実現すると信じ切っていました。神の喜ばしい知らせ(福音)は時が来れば必ず実現する。それはイエス様によって完全に実現しました。今週も神の御前を進みましょう。


◇2021-11-21 使徒9:1-20 「なぜ私を迫害するのか」
よくテレビで「目からウロコ」の新知識という番組があります。今日の聖書の個所こそ、世界共通の慣用句「目からウロコ」の原典です。
今日の聖書の個所の中でサウロが体験した「目からウロコ」は、生活の中で得するちょっとした発見どころのものではありませんでした。彼の命を死と滅びから救う「目からウロコ」の経験でした。
サウロがしていたことは、生ける神の御子、イエス・キリストを迫害することでした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との天から呼びかける声を聞きました。神の教会を迫害することは「わたし」、すなわちイエス様を迫害すること。イエス様は、それほどに、ご自分の体、ご自身そのものとして教会を、私たちを見ておられます。
サウロは目が見えず、食べることも飲むこともできず、3日間も死んだように過ごしました。彼は生きる気力を全く失ってしまいました。このまま癒しと慰めがなかったなら、彼は絶望のあまり死んでしまっていたでしょう。この死ぬばかりの罪びとを、神様は赦してくださいました。アナニヤを用い、彼の手をサウロの上に置き、癒し、聖霊を与えて彼を生かします。目からうろこが落ちたのはこの時でした。まさに彼の罪が、イエス様の十字架の贖いによって取り除かれたとき、人の目からうろこが取り除かれ、人は聖霊によって見えるようになるのです。私たちも遣わされ、この執り成しの祈りをささげたいのです。

 

◇2021年11月14日 マタイ11:16-19 「知恵の正しさはその働きによって証明される」 (横山晋次先生)
主イエス様から賜った聖霊の導きによって主の弟子たちは、主の名による神の罪からの救いを宣べ伝えたように、 私たちも、福音を伝えたい。

 

◇2021年11月7日 使徒8:26-40 「進み寄って、並んで行きなさい」
先週の個所では、ペテロにより「苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている」と称された元魔術師シモンの出来事がありました。水の洗いでは不十分でしたが、深い悔い改めにより、聖霊により、主イエス様による身代わりの死によって、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放」(ローマ8:2)するということを経験し行くのでした。この解放こそが福音の「良き知らせ」です。どんなにがんじがらめに罪の縄目によって結ばれていても、人の目には不可能と思えるほど苦々しさに染まった心根でも、主の贖いと、聖霊の力によって人は解放されるのです。
今日もこの救いと解放を求める一人の人が登場します。それはエチオピアの女王に仕える宦官でした。申命記23章によれば、彼は会衆から除外される者でしたが、それでも彼は聖書を読み、神様を信じていました。時に孤独に心さいなまれたでありましょう彼の心に響くのは、イザヤ53章の御言葉でした。
「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように…」一体彼は誰なのだろう?彼は何のためにそのような苦しみに会い、命を絶たれることになってしまったのだろう? 聖霊は、聖書を読みながら、信じたいと思いながらも意味が分からずにさまよう、求める人の所にしもべを遣わされます。「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」との言葉が胸に響くのです。

 

◇2021年10月31日 使徒8:9-25 「心が神の前に正しい時」
シモンの魔術は、人々を驚かせ、彼に関心を引かせ、さもえらい者に見せかけるだけのものでした。こうして人々は、実に長い間彼に深い関心と注意を持ち続けていました。しかしそこにイエス・キリストの名を伝える僕ピリポが現れました。人々は続々と洗礼を受けました。これを見て、シモンも洗礼を受け、ピリポが行う数々のしるしや目覚ましい奇跡を見ていました。
エルサレムからペテロとヨハネが遣わされ、洗礼を受けた人たちが聖霊を受けるようにと祈り、彼らの手を置くと、人々は聖霊を受けました。それを見てシモンはお金を差し出して私にもその能力を分けて下さいと頼みました。
「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。」
「おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることは出来ない。おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目が絡みついている。」  
苦々しい心、自己中心の心、悪に染まった古い心、そして絡みつく罪の中にがんじがらめにある生活の姿。人の世界は、どれだけこの罪の支配の中にあってがんじがらめにされているのでしょうか。
「使徒たちは力強くあかしをなし、…福音を宣べ伝え」。

イエス・キリストに強く結ばれた民は、力強く救い主キリストの良き知らせを語り続けました。神様の前に心正しい僕たちは、救いを宣べ伝え聖霊にある人を造り出します。

 

◇2021年10月24日 使徒8:1-8 「それでも良き知らせは広がっていく」
ステパノの殺害の後の出来事です。キリストを忠実に証しし、人々にその心の傲慢さを気付かせようとしたステパノが取り去られたことは痛みでしたが、教会にはさらなる試練の暴風が吹き荒れます。時を置かずにその日に、エルサレムの教会に対して大迫害が起こったのです。そのあまりの猛威に、使徒以外の者はことごとくすべて、住むところや働きの場から追われて、エルサレムからユダヤ、サマリヤの地方へ散らされたのです。そこに「居られないように」されてしまったのです。しかし使徒たちは踏みとどまりました。そして信仰深い人たち(これはユダヤ人クリスチャンを指すものと考えられます)は、ステパノを葬り、彼のために非常に悲しみました。しかしこれは反体制の支持を表す危険な行為でした。
このような悲しみの祈りが神様にささげられる最中、「ところが」と続きます。「サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。」教会を「荒らし回った」との言葉は、野獣が人間の身体を傷つける時の荒々しい様子を示します。
このように教会はこれでもかと傷つけられました。しかし荒らされ、散らされてもなお、人々は福音の良き知らせの御言葉を宣べ伝えました。それでもなおどこに良い知らせがあるのだろうかと失望落胆しそうな時にも語る情熱を聖霊によって授かっていました。こうしてサマリヤに大変な喜びが起こりました。

 

◇2021年10月17日 1ペテロ4:7-12 「愛は神から出たものなのである」
「神は愛である」との、有名な個所です。この節全体を見ると、「神は愛であり、温かい、お優しいお方、良かったですね」との言葉でないことに気づきます。「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」という流れの中にある言葉であったことに驚きます。神は愛だから、愛のない者には神は分かりません。愛のない人は神様を知りもしませんとの、キッパリとした切り捨てるような言葉です。
「互いに愛し合うべき」とか、「もし私たちが互いに愛し合うなら」とか、命令や、条件めいたことが書き並べられ、「神は愛なり」との言葉が霞んでしまいそうです。
しかし、神様は私たちにそのようなご命令をなさるにふさわしいことを先んじて既にしてくださっているのです。
9節「それによって、私たちに対する神の愛が明らかにされた」、10節「あがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」、11節「神がこのように愛してくださったのであるから、」こういう風に、これらの神様からの大きな大きな恵みを思えば、先んじた壮大な救いの恵みがあるのなら、私たちの愛の応答など、至極当たり前のことであるように思われるのです。結局私たちの愛は、神様からの巨大な愛に対するちっぽけな応答にすぎません。ここまでして下さる方がありながら、愛さないのなら、神を知らないと言われても仕方がない。それくらいにはっきりと、神様は私たちを愛してくださったのです。

 

◇2021年10月10日 使徒7:39-60 「人の子が神の右に立っておいでになる」
「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐いて、どうしても、やめようとはしません。『あのナザレ人イエスは、この聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』などと、彼が言うのを、わたしたちは聞きました」との偽証から始まった裁判でのステパノの説教の結びです。
聖所と律法、モーセの慣例と声高に叫ぶ彼らですが、モーセを退け、神殿の原型であった幕屋を退け、子牛の像を造り、偶像に供え物をささげ、自分たちの手で作ったものを祭って打ち興じ、先祖たち同様、預言者をも律法をも軽んじ、「正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった…ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである」と、先祖同様、外側は信心深いようであっても、心は神様から遠く離れていることをステパノははっきりと示しました。
しかし、それは我が民を貶める事ではなく、救いの出発点なのです。そのようにどうしようもない罪深い、心の離れた民に主は救い主を与え、贖いを与えて下さったのです。それがイエス・キリストであったのです。しかし民は良き知らせに耳を傾けず、悪の行いを増し加えるのでした。

 

◇2021年10月3日 使徒7:30-38 「神に立てられたモーセ」
モーセが思い立って自身の民族のためにエジプト人に仕返しをし、同胞から排斥されて40年が経ちました。救いの為モーセが立ち上がったかと思えば、奴隷状態からの救いはまだ40年も続くことになろうとは、歴史の壮大さを感じます。あのとき人々がモーセを受け入れていたらどうなっていたか、モーセが短慮をしていなかったらどうなっていたかと考えますが、それが神の時であったのでしょう。
40年たった時、シナイ山の荒れ野において、御使いが現れ、そして主の声が聞こえました。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民が虐待されている有様を確かに見とどけ、その苦悩のうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下ってきたのである。さあ、今あなたをエジプトにつかわそう」
ついにその時が来ました。「だれが、君を支配者や裁判人にしたのか」と排斥されたモーセは、神様によってこの時こそ支配者、解放者として遣わされることになりました。
35節「このモーセを」、36-38節「この人が」、「この人が」、「この人が」と、神様が確かにモーセを立てて遣わし、奇跡としるしとによって彼をお用いになられたことが語られます。そして「神はわたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう」とモーセが語ったその人こそがイエス・キリストでした。モーセとイエス様は預言でつながっているのです。

 

◇2021年9月26日 使徒7:17-29 「すべてのわざには時がある」
「すべてのわざには時がある…神のなされることは皆その時にかなって美しい」とは、旧約聖書の伝道の書の3章の一節です。
神様は最善をなさるお方です。私たちの目には奇異で、理解しがたく、不合理であるように見えても、神様のなさることは皆その時にかなって美しいのです。
17節「約束の時期」が近づいていました。神様はご自身の民を救い出すことをお考えになられつつ、またエジプトへの裁きの時をも見ておられました。そして20節「このころ」モーセが生まれました。彼はへブル人でしたが、不思議な神様のお導きでエジプトの王の娘によって育てられました。あらゆる学問を教え込まれ、「言葉にもわざにも、力がありました。」これは、言葉と業に可能性を備えていて、影響があり、指導力があり、力強いという意味で、彼の言葉には威厳があり、その行いも堂々としたものでした。
彼が40歳になった「時」、自分の出自に照らし合わせ、彼は我が民に尽くすために立ち上がりました。虐待されている我が民を救うため、彼はエジプト人に仕返しをしたのです。モーセは、「神様が自分の手を用いて」彼らに神様が救いを与えているというメッセージがイスラエル人たちに伝わると考えましたが、彼らは悟りませんでした。モーセはイスラエル人たち同士のいじめをも見て尚も仲裁に入りますが、「誰が君をわれわれの支配者や裁判人にしたのか」と冷たい声を浴びせられます。せっかく彼らのために立ち上がったのになぜ?しかしそこにはなおも神の時があったのです。


◇2021年9月19日 使徒7:1-16 「のがれ出て、わたしを礼拝する」
「あのナザレ人イエスはこの聖所を打ちこわし、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう」とステパノが語ったという驚くべき偽証の中、四面楚歌、針のむしろの中、人々がステパノに目をやると、彼の顔は天使のように見えました。輝いていました。
「神殿と律法」。イスラエルの民族と神は共に歩まれ、モーセに十戒を与え、ソロモンを通して神殿を与え、神様はご自身の民を出エジプトの奇跡と共に力強く導かれました。しかし、民の心はいつも迷い、乱れ、そこにいつもあったのは神様の憐れみと忍耐でした。イエス様はマタイ9:13でこういわれました。「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」 この引用元はホセア書6:6で、こう書いてあります。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
神様は慈しみと愛とを知らされ、人は自らの無力を神様の前に認め、苦難、困難の中で無条件に助けたもう神様の御助けを喜んで受け入れればよいものを、そのために遣わされたイエス様をねたんで拒み、十字架につけてしまいました。神殿よりも律法よりもはるかに優れた神の子を、人はその手にかけてしまったのです。しかし神様は人を罪から死から逃れさせ、神様の前で礼拝することを得させて下さいます。常に悔い改め、神を知ることを更に願いましょう。 

 

◇2021年9月12日 使徒6:8-15 「恵みと力、知恵と御霊によって天使のように」
ステパノが表舞台に登場します。前の個所では、彼は使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、食事の配給の働きのために召された執事であったのですが、彼が堂々と民衆の中で証しをし、最高法院に立つ姿を見ることになるのです。神様の召しは私たちが捉えつくすことが出来ません。恵みと超自然的な力に満たされ、彼はめざましい奇跡としるしを行いました。
そして今日の個所で彼について見ることといえば、「知恵と御霊とで語り」、「彼の顔は、ちょうど天使の顔のよう」であったということです。
後はすべて、この恵みと力に満ちて奇跡としるしを行い、知恵と御霊で語り、顔がさながら天使のように輝いていたこの人に対して議論し、対抗できず、人々をそそのかし、扇動し、彼を襲って捕らえて、偽証人を連れてきて、裁判にかけるという、神様のお働きに盾ついた人たちの言動です。
神様は、ご自身の忠実な僕を、今日も恵みと、超自然的な、理解も解明もできないような力に満たし、目覚ましい奇跡としるしを行わせ、知恵と御霊によって語らせてくださいます。その存在はさながら天使のようであり、その顔は輝いている、そういう者としてお用い下さいます。周囲の騒音がどのようなものであっても、どんなにその力が大きくとも、その働きかけが多くて押しつぶされそうであっても、恐れることはないのです。嘘とまやかしでしか対抗できない、悪に操られた世の勢力をもその流れをも恐れることはありません。なすべきことを行い、語るべきことを語りましょう。

 

◇2021年9月5日 使徒6:1-7 「神の言はますますひろまり」
ここに、「ギリシャ語を使うユダヤ人」と「ヘブル語を使うユダヤ人」が登場します。前者は「離散したユダヤ人」であり、古くはアッシリアやバビロンの捕囚に端を発し、パレスチナから散らされて外地で生まれ育ったユダヤ人で、彼らはギリシャ語を使いました。この人たちと、パレスチナに生まれ育ってヘブル語(アラム語)を話すユダヤ人との間に確執が起こります。それはやもめへの日々の食べ物の配給の事でした。ギリシャ語を使うユダヤ人たちは多少下に見られていたのかもしれません。
弟子の数が増えるにつれて起こる問題に対して対処を迫られた十二使徒は言いました。「神の言をさしおいて」携われないから、人を立てて「もっぱら祈りと御言のご用にあたることにしよう」。「祈りと御言のご用」とは、礼拝と宣教の事です。
「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人」、「信仰と聖霊とに満ちた人」たちは、背景の違う、言葉や文化の違う人たちの間に入り、間を取り持ち、確執を取り除き、主の群れの一致のために邁進しました。弟子の数が増えるにつれて、数々の問題が起こりますが、それに対処する人たちが群れの中から選ばれ、解決し、使徒たちによる神の言葉のご奉仕が守られ、礼拝とみことばの宣教が前進する時、神の言葉はますます広まり、大勢の祭司たちでさえ信仰を受け入れました。教会は、時にその成長を阻害するような困難と課題を抱えますが、会衆の中からふさわしい人が立てられ、乗り越えていきました。信仰と聖霊による執り成し手を今日も教会は必要としています。

 

◇2021年8月29日 使徒5:27-42 「神から出たものなら止められない」
「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。…なんという事だ、エルサレム中にあなた方の教えを氾濫させている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ。」と、大祭司は語りました。彼らは目の前の尋常ならざる状況に恐れながら、その氾濫を止めようと、自分たちを責める声から逃げ切ろうとして躍起になっているように見えます。
使徒たちは言います。「人間に従うよりは、神に従うべきである。わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。」 ここにはっきりと福音が、「良き知らせ」が述べられています。それは、人の罪過ちをはっきりと示しながらも、神様の重点は「悔い改めさせて罪の赦しを与える」ということです。 それなのに、救いのメッセージが語られているのに、祭司長ら、これを聞いた者たちは自分のプライドの事ばかり考えて、自分が赦されるべき罪びとと認めることが出来ず、「激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思」い、再びイエス様を十字架につけたのと同じことを繰り返そうとするのです。
そんな中、知恵に満ちたガマリエルは語ります。「しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。」そうです。神様によって立てられた彼らを止めることは誰にも出来ないのです。


◇2021年8月22日 使徒5:17-26 「立ち、命の言葉を語りなさい」
先週のアナニアとサッビラの出来事では、恐ろしいような神様の峻厳さが記され、サタンの虎視眈々と人の内に入り満たして惑わす働きを見ました。しかし弟子たちはますます聖霊に満たされ、主はその弟子たちの手にご自身の御手を添えられ、多くのしるしと不思議な業を行われました。
これを見て、大祭司と仲間の者、最高議会はどのように行動したのでしょうか。それは「嫉妬の念」に駆られて「立ち上がり」彼らを迫害することでした。洗礼者ヨハネを投獄し首をはね、主イエスを十字架につけたのと同じように。
「ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った。『さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい』」大祭司たちはどんなに権威と力を尽くして立ち上がって主の弟子を獄に入れようとも、脅して語らせまいとしても、主の弟子たちが立ち上がって命の言葉を語ること、すなわち全ての人の贖いとして十字架に死に、復活されたイエス・キリストを証しすることをとどめることは出来ませんでした。
失望の獄中の夜は、主の働きによって希望の朝に変えられます。そしてからの墓ならぬからの獄がそこにはあります。権力者の嫉妬は、困惑と恐れに変わって行きます。
人の力も、迫りくる恐怖も、状況の悪化も、いかなる獄も私たちには通じません。ただ人を死から復活させることのお出来になる方を畏れ、信じ、立ち上がって今週も、この方の「命の言葉」をお伝えしましょう。

 

◇2021年8月15日 使徒5:1-16 「人を苦しめる悪霊、命を与える御霊」
今日の聖書の個所はホラー小説のような不気味さをたたえています。3節「どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか?」とありますが、前半を直訳すれば、「なぜサタン(悪魔)はあなたの心を満たしたのか?」という意味になります。勝手にサタンが心を満たしたわけではありません。押し入って、征服したのではありません。「どうぞどうぞ」と歓迎したから、サタンは心を満たしたのです。そしてその向かわせる先は聖霊を欺くこと、神を欺くことです。
私たちが、全てお見通しの神を欺くことは出来ないのに、悪魔に満たされた心は無知蒙昧の果てに神の聖い霊を欺きます。虚偽を語り、ごまかし、不真実を語ります。言い逃れが出来ると思い込んでいるのです。神を神と思わない不遜の心で満ちているのです。聖霊が私たちの心の内におられ、私たちに真理と命を授けようと執り成しておられるのに、それを一笑に付して、それを欺くことを図って止めない、そういう心、主の御霊を試みる(9節)心、主を軽んじたとしても何の罰が下ろう、試してやれ、という不遜極まりない心が人の心にはあります。
「大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まって来た」(16節)こうありますように、汚れた霊は人に満ちて人を狂わせ、神を侮らせ、人の人生を台無しにして、用無しにし、生きた屍のように力無い者とし、苦しめます。そんな悪霊に目を留めず、聖霊を賜る主イエス様を受け入れて進み続けましょう。

 

◇2021年8月8日 使徒4:32-37 「慰めの子らにあらわされる神の御業」
「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして…」と書いてあります。これは意志と感覚、そして精神(スピリット)を一つにしていたとも言えるでしょうか。オリンピックの試合が続けられていますが、一人一人の個性が異なっても、思い、考え、心を一つにして、心の奥底の価値観と言いますか、魂を一つに通わせて、一つ家族のように阿吽の呼吸で進む大切さを感じます。
信仰を共にする群れが、共に暮らす家族のようになり、家族同士が必要のために互いの持ち物を分かち合うように、ちょうど出エジプトの時のマナを分かち合うように、日々の必要のために分かち合っていた出来事に、その結びつきの強さを知り、心打たれます。
そんな信仰共同体である教会に、神様は祝福を与えられ、使徒たちは「主イエスの復活について、非常に力強く証し」することとなり、「大きなめぐみが、彼ら一同に注がれ」ました。

 

「使徒たちの足もとに置く」ということは、教会にささげるということです。そして教会の交わりの中で、必要な人に富が分配されていきました。神様の御用のために仕え、祈り、奉仕することと、信じた者の群れが助け合うということが、同時進行的に進められていきました。こうして心通い合う群れを通して神様はその御業を現されました。バルナバは「慰めの子」と呼ばれ、後にパウロを群れの中に積極的に招き入れ、パウロと共に世界宣教をしたり、働きを放棄した者を再びかかえたりしましたが、その根底には彼の捧げ、助け合う心がありました。

 

◇2021年8月1日 使徒4:23-31 「思い切って大胆に語らせてください」
今日の聖書箇所には、神様に確かに聞かれる祈りがあります。
それは1ヨハネ5章14節にこうある通りです。
「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。」
ペテロとヨハネは釈放されて後仲間の所に戻り、一切のことを語りました。それは詩篇2篇の通りの出来事でした。
「異邦人ら、もろもろの民、地上の王たち、支配者たち、ヘロデ、ピラト、異邦人、イスラエルの民」は党を組んで一緒になって、一致団結してイエス様を迫害して十字架につけたように、主の弟子たちにも脅迫を繰り返します。しかしそれは主によって知られないことではありませんでした。それはあらかじめ定められていたことでした。
主は相集い逼迫を受けるその状況の中で、主の弟子たちに祈ることを望んでおられます。状況に押しつぶされないで大胆に祈ることが出来るように導かれているのです。

 

「主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」 この祈りは聞かれました。その通りに聖霊の力に満たされ弟子たちは大胆に神の言葉を語り出しました。私たちにも神様の言葉を語らせまいとする力が働きますが、神様は私たちの祈りに答えて御力を現されるのです。

 

◇2021年7月25日 使徒4:15-22 「神に聞き従い、御名を語る」
エルサレムにて大祭司、役人、長老、律法学者たちが招集され、日本で言うところの国会兼、行政府兼、最高裁判所のような最高議会が開かれました。ペテロとヨハネは居並ぶ人たちに比べれば田舎から来た「無学な、ただの人たち」でしたが、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」とのその大胆な話しぶりを見て人々はびっくりしました。イエス様が共におられ、聖霊によって励まして下さり、彼らは立派に行動しました。
さて立派な先生方はペテロとヨハネに退場を命じてから協議しましたが、彼らは弱腰でした。いつも民衆を恐れ、自分たちの権威を失わないようにとの姑息な手段を協議するのみでした。脅してこの御名で話さないようにと命じましたが、イエス様の権威によって進むペテロらにその脅しは聞きませんでした。逆に権威者たちの弱点は見抜かれていました。
「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」
権威者たちは腹いせに、ペテロらをさらに脅すしか方法はありませんでしたが、その働き虚しく、「著しいしるし」、生まれつき足が不自由で40年以上にわたり苦しんだ人にあらわされた「そのしるし」は、人を恐れずに神を畏れる弟子たちによってますます現されるところとなったのです。「イエスの名」が今日もこの「しるし」を引き起こすのです。

 

◇2021年7月18日 使徒4:1-14 「イエスと共にいた者」
「美しの門」で起こった出来事は、今もなおその波紋を広げていました。人の知恵では考えられないことが神様の力によっては起こる、それがイエス・キリストの御名による癒しでした。それは人々に捨てられ、十字架につけて殺されてもなお、神様は死人の中からイエス・キリストをよみがえらせ、隅の頭石とされました。建物の基礎となる大切な石とされた、父なる神様による出来事に基づくものです。
この、人からは捨てられても、神様の力によってよみがえり、立ち上がったイエス様の御名は、私たちがじっと見つめ、いつも頼みにするべき御名であり、「この人による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない」という御名なのです。

 

祭司たち、律法学者たちはペテロらがこのイエスにある教えを説き、その復活を宣伝することに大変悩まされ、心を苛立てていました。このことを語られることが不都合であり、蓋をしようと取り囲み、真ん中にペテロらを立たせて尋問しました。「お前はいったん何の権限によってそんなことをしているのか」と。しかしペテロは聖霊に満たされて言いました。どうして病人に良いことをして責められるのか、あなた方はイエス様を殺したが、神はこの方をよみがえらせた。そしてその神の力によって、その御名によって私はこのことをしたと。聞く人たちは無学なただの人がここまで大胆に語るのを見て不思議がりました。しかし彼らがイエス様と共にいた者であるということだけは確かな事だったのでした。

 

◇2021年7月11日 使徒3:17-26 「あなたがたは預言者の子」
「まず最初に、真っ先に、一番重要な事として、神様は、あなた方のために、しもべを立て、悪を取り除き、よこしまと邪悪から立ち帰らせる過程においてあなたを祝福するためにキリストイエスを送って下さった」とのペテロの言葉が胸を打ちます。
この恵みを神様は古くから「予告しておられ」、「あらかじめ定めて」、「昔から預言したおられ」、「この時のことを予告」しておられました。人の罪のための「キリストの受難」は初めから多く預言されていました。この赦しと恵みが初めからあったのだから、弱さのゆえに、あなた方の指導者たちと同様、「知らずに」、無知のゆえにしでかしてしまった過ちについて、すなわちいのちの君を十字架につけてしまったことについて、悔い改めて本心に立ち返りなさい、心を入れ替えて、心の向きを変えて、生き方を変えて進みなさい、滅びに向かう無知の心を捨てて人の進むべき本心に立ち返り、罪をぬぐい取って頂き、主の御前から来る慰め、元気の回復を得て、心の奥底からの力付けを得て進みなさい。神様はあなた方のために、祝福にあずからせるためにキリストイエスを遣わして下さったからと、聖書は優しく語り掛けます。
「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」、この祝福は私たちにとどまるものではなくて、地上のすべての人に受け継がれるべきものです。私たちが留めおいていてはならないものです。
「あなたがたは預言者の子」。モーセが苦役から民を解放したように、私たちも祝福の子として世にあって輝く者なのです。

◇2021年7月4日 使徒3:11-16 「いのちの君、イエスの御名」
時に、「困ったことがあったら、私の名前を出しなさい、そうすれば助けが得られるだろう」という有力者の一言に助けられることがあるかも知れません。大企業の受付で、その人の名刺を差し出せば、社長室へ通していただけることもあります。
パウロは、「イエス様のお名前」に信頼しきっていました。彼は、イエス様がどのようなお方でいらっしゃるかを熟知していました。彼は、金銀にはより頼まず、金銀の力を超える働きが出来ると信じ、このお名前を出して、生まれながらに足の利かない男性を癒しました。この癒しの力の源は彼には無く、このお名前にあったということは明白でした。
アブラハム、イサク、ヤコブの神がイエス様に特別な栄誉を与えられ、人としてあるイエス様に特別な示しを与えられたにもかかわらず、イスラエルの人たちはこのイエス様を拒み、いのちの君を、いのちの創始者を、いのちの原作者を殺してしまいました。到底許されない大罪を人間は犯しました。自らがいのちの道を摘み取ったのです。
しかし神様はこのイエス様を死人の中からよみがえらせました。弟子たちはその証人でした。
力あるイエス様の御名を信じるということ。どんなに苦難に満ちた、絶望的な状況でもこの名を信じるということが私たちに問われています。この御名は人を力づけ、癒し、立ち上がらせます。イエス様のゆえの信仰は、本当に力強い助けを生み出します。ですからこの名を拒む者ではなくて信じる者でありたいと願います。

 

◇2021年6月27日 1コリント12:12-27 「一つのからだとなるように」
今日は少し使徒行伝から離れ、「教会」について考えたいと思います。とはいえ、内容は使徒行伝と連続しています。「一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」とあるからです。
教会の誕生日としばしばいわれます、あのペンテコステの出来事、恐れおののいていた弟子たちが習ったこともない言葉で神様の偉大な御業をほめたたえ、キリストの証人として世界に飛び出したあの出来事は、教会にとって大きなことでした。彼らに聖霊を与えることを約束しておられたイエス様の言葉は正しく、イエス様が神様から遣わされた方だということは明らかになったからです。
共に御霊を飲んだ者は一つ体の各部分だと今日の聖書は語ります。共に「キリストにあずかる」ということは、同じかしらを頂くということであり、それは同じ体になるということを指すと聖書は語ります。
体の成り立ちを考える時、それは、「いらない部分はない」ということです。体に表に良く見える顔の組織など、麗しい部分もあれば、誰にも見られることのない足の裏のような部分もあります。しかしすべてが大切な部分であり、優劣を語ることに意味がなく、調和し、いたわり合い、分裂がなく、ともに悩み、ともに喜ぶ、一つ体となるように、共生と調和の霊が与えられていると聖書は語ります。
私たちはこの御言葉を頂かなければ、しばしば一つとなりがたい弱い存在であることを悟り、主に求めたいと願います。

 

◇2021年6月20日 使徒3:1-10 「わたしたちを見なさい」
私たちの人生にとって最も大切な気づきとは何でしょうか。家族や友を大切にし、健康に留意し、骨身を惜しまずに働いて、チャンスを得ること…。いろいろと人生には大切な気づきがあると思います。
ペテロは美しの門で施しを求める男性に、「わたしたちを見なさい」と言いました。これは「私たちに気づき、私たちを発見し、見つけ出しなさい」という意味です。
期待を持たせて何を言うかと思えば、「金銀は私には無い」との言葉でした。何を大仰な、はったりを言うような人たちだとがっかりしたかもしれません。しかしその後が奮っていました。「しかしわたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」
「歩く」とは、ギリシャ語で動き回るとか、生きるとか、自分の身を処するという意味があります。
この男性はいつも、人通りの多い神殿の門まで抱えられ、おいてもらって物乞いをして、生計を立てていました。施しを受けるのが彼の生きる道でした。しかしペテロはそれに勝る道を彼に与えました。それが「ナザレ人イエス・キリストの名」でした。
彼は足とくるぶしがたちどころに強くなり躍り上がって立って「歩き出し」ました。彼には、新しく自分の身を処するすべが与えられたのです。それがイエス・キリストによる生き方でした。様子を見ていた人々もそれと気づき、そこに人生を分ける意味を知って大変驚きました。

 

◇2021年6月13日 使徒2:43-47 「よろこびと、まごころをもって共に」
ペテロが熱弁をふるい、イエス様こそは、王ダビデが畏れ主と呼んだ方、父なる神が「黄泉に捨ておかず、その肉体が朽ち果てることがない」と言われた方、その通り3日目によみがえり、父のみもとに昇られ、約束の聖霊を与えて下さった方、その復活も、聖霊降臨の様子をも確かに見たあなた方は、神が主として立てたこの方を十字架にかけたあなた方は、なぜ今もなお、否み続けるのかと語りました。
「この曲がった時代から救われよ」この言葉に多くの人たちが導かれました。一同はひたすら教えを守り、信徒の交わりをなし、聖餐を共にし、祈りました。ここに教会の原型があります。
彼らの内にいつも神様は共におられ、彼らには神様の臨在による聖なる恐れがありました。神様は共におられ、多くの奇跡としるしを与えて下さいました。彼らは一つ心で共に住み、家族のように持ち物を分け合いました。
そして彼らは日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし礼拝し、家では聖餐をなし、賛美をし、いつも神様と共に生きました。そんな彼らは、この上ない非常な喜びと、子供のような素直さ、純真さ、謙遜な心でいました。こんな彼らは好意を持たれ、その共同体を求めて日々仲間が増えました。現代の時代はこの時よりもはるかに複雑であるように思われがちですが、決してそうではありません。この純真さ、一途さが、今日もなお求められているのです。

 

◇2021年6月6日 使徒2:24-42 「この曲がった時代から救われよ」
聖霊降臨の時、弟子たちは霊が語られるままに、それまで習ったこともない外国の言葉で、それぞれが神の大きな働きを語りました。
それを聞く人たちは「いったい、どういうわけなのだろう」と驚き怪しみました。
人には理解できないことが起こり、弟子たちは賛美の舌を頂いて、世界広しの、多くの人々に語り掛けうる言葉を得たのでした
。まさにそれは「地のはてまでわたしの証人となるであろう」と語られたイエス様のお言葉の成就でした。
そして今日の個所で、ペテロは大胆に霊によってイエス様のことを証しし、語ります。
ユダヤ人たちが慕う王ダビデがどれだけ「わが主」を目の前に見、頼りとしたこと、「魂を黄泉に捨ておくことをせず、聖者は朽ち果てることがない」とこの主について預言し、
その主は神によって敵を制圧し、その敵の王の首を足台となす方であると語ったことを述べ、その主、神がメシア・救い主となさった他ならぬその主イエス様をあなた方が十字架につけたのですと、ペテロは迫りました。
聞いた人々は強く心を刺されました。どうしたら良いのでしょうかと口々に語りました。
イエス様という方は、全ての人にとって無縁な方ではありません。
この方を無きものとしようとする「曲がった時代」、しかし私たちはそれを曲がったままにすることなく、そこから逃れる道、救いの道をお伝えすることが出来るのです。

 

 ◇2021年5月31日 使徒2:14-23 「私の語ることを聞きなさい」
先週は聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を味わいました。すなわち、習いもせず語ったこともない言葉で、 聖霊が語らせるがままに、神様の偉大な御業をたたえたのです。これはまさに私たちのキリスト者としての 歴史そのものです。神様をかつては知らなかった私たちが、わが力によらず、ただ聖霊により、今習ったことも ないような麗しい祈りの言葉と証しの言葉で主のくすしき御業をほめたたえるようになったのですから。
そしてペテロは声を張り上げて語ります。「私の言うことに耳を傾けていただきたい」と。終わりの日、 主の霊がすべての人に注がれ、預言し、神を宣言し、主の幻を、志を、ヴィジョン(未来像)を見せて頂く、 そういう霊を授かったのだと。
天には救いによる守りがあり、奇跡と麗しさがありますが、終わりの時、地にはやがて裁きが来ます。
日は闇に、月は血に変わります。しかし主の名を呼び求める者は皆救われます。 「今私の語ることを 聞きなさい」パウロは霊によって確信をもって語ります。力と、不思議と、奇跡的しるしによって神様が 実証された方、神様の深い予知と計画とによって導かれたお方をあなた方が、あなた方が十字架につけて 殺したのだということをパウロは語りました。人に主を認めようとしない心があります。しかし、 キリストを信じ、救われて霊を受け、未来に向けて進む道があるとパウロは力説しました。

 

◇2021年5月23日 使徒2:1-13 「聖霊が語らせるままに」
五旬節の日。それは50日目の祭日との意味です。過越の祭りから50日目。この日は、大麦の収穫を終え、 小麦の収穫の始まる時、収穫のお祭りの時です。
イエス様は40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話されましたが、過越祭の時に十字架にかかられ、 3日目に復活され、それから40日間とは、この50日目のペンテコステ、ということを考えますと、ほとんど ずっと彼らと共におられたと分かります。そしてついに出来事は起こりました。
弟子たちは主のお言葉の通りにエルサレムから離れずに共に聖霊を待っていました。そして五旬節の日、 突然に激しい風が吹いてきたような音が天からして、炎のような、分かれた舌が弟子たち一人一人の上にとどまり、 一同は聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、色々の他国の言葉で語り出しました。この風の音は、イエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と語られたことを想起させます。 様々に分かれた言語を語らせるための舌を授けられ、彼らは聖霊が語らせるままに神を賛美しました。聞く人々は あっけにとられるばかりでした。どうしてそんなことが可能なのか。人には理解できないことも、 神様にはできるのです。

 

◇2021年5月16日 使徒1:3-11 「わたしの証人となる」 イエス様は苦難をお受けになられ、私たちの身代わりとして十字架の死を遂げられ、よみにまで下られ、 3日目に復活され、確かな証拠によってご自身を示し、40日にわたって弟子たちに幾度となく復活のお姿を お見せになられました。そしてイエス様は神の国のことを語られました。  
弟子たちは「イスラエルの国を復興する」という、目に見える国のことを語りましたが、イエス様は 「神の国」について語られました。
イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われました。「神の国は実にあなた方のただ中にある」と 言われました。神の国の到来とは、神の子救い主イエス・キリストが私たちのただ中におられ、私たちが イエス様を信じているということです。
「見よ、あそこに」「見よ、ここに」と言われるときにもそちらに行くな、彼らの後を追うなと、 イエス様はルカ17章におっしゃいました。
しかし、エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊を待ちなさいと主は語られました。この時、 「あなた方は力を受けて地の果てまで「わたしの証人となる」。主こそ、私たちが本当に必要とする存在、 あまねく世界すべての人間が本当に必要とするお方なのです。私たちはそのイエス様の証人として頂いたのです。

 

◇2021年5月16日 使徒1:3-11 「わたしの証人となる」
イエス様は苦難をお受けになられ、私たちの身代わりとして十字架の死を遂げられ、よみにまで下られ、 3日目に復活され、確かな証拠によってご自身を示し、40日にわたって弟子たちに幾度となく復活のお姿を お見せになられました。そしてイエス様は神の国のことを語られました。  
弟子たちは「イスラエルの国を復興する」という、目に見える国のことを語りましたが、イエス様は 「神の国」について語られました。
イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われました。「神の国は実にあなた方のただ中にある」と 言われました。神の国の到来とは、神の子救い主イエス・キリストが私たちのただ中におられ、私たちが イエス様を信じているということです。
「見よ、あそこに」「見よ、ここに」と言われるときにもそちらに行くな、彼らの後を追うなと、 イエス様はルカ17章におっしゃいました。
しかし、エルサレムを離れず、父の約束、すなわち聖霊を待ちなさいと主は語られました。この時、 「あなた方は力を受けて地の果てまで「わたしの証人となる」。主こそ、私たちが本当に必要とする存在、 あまねく世界すべての人間が本当に必要とするお方なのです。私たちはそのイエス様の証人として頂いたのです。


◇2021年5月9日 ヨハネ21:1-19 「わたしの小羊を養いなさい」
イエス様はまたも弟子たちにお姿を現されました。これですでに三度目。主はわが小羊を愛し抜き、 いつも時を、場所を共にしてくださいます。  「親の心子知らず」とは言いますが、何度も何度も来てくださり、 現れて下さるのに、弟子たちはこの度もそうとは気付きません。
ルカ5章の大漁の奇跡の時、夜通し頑張っても何も取れなかった時と同じ。すでに夜は明けていましたが、 弟子たちは事がうまく行かず、寂しい、寂莫とした気持ちでいます。
その白々としたガリラヤ湖の朝、朝もやの中、イエス様はまだ暗いうちから弟子たちを見守り、 湖畔に立っておられました。
「子たちよ、何か食べる物があるか。」優しい語り掛けがあります。これは直訳すれば「幼な子たちよ、 魚が何にもないんだろう?」です。主は弟子たちの空虚さ、心細さ、欠乏をすべてご存じです。主の元には 暖かな炭火があり、整った食べ物があります。主は私たちの養育者であり、牧者です。「わたしの羊」を 守り抜いて養ってくださいます。
主のみもとで子供のように喜んで魚を並べて数える弟子たち。このお方のもとに人の幸せがあります。    


◇2021年5月2日 ヨハネ20:24-31 「信じて命を得よ」
今日の主の言葉を味わいます時、主イエス様がどれだけ私たちが信じ続けることが出来るように思い図って いて下さるのかということを感じます。
信仰者と共に励まし合いながら集う時、主はその真ん中におられます。安かれと語り続けられます。
しかし私たちには様々の障害が訪れ、相互の交わりと礼拝から遠ざかる時があります。信じるための決定的な チャンスがあったのに、小さな障害のためにそれがふいになってしまうという、私たちは熾烈な、信じると いうことの戦いの中にあるとも言うことが出来るかもしれません。時に戦いに敗れ、信じることが出来ず、 心は千々に乱れます。しかし、主は信じられないその辛い思いを人知れず聞いておられます。
そして新たな信じるチャンスを与えて下さいます。
見なくては信じられない私たちに、初めから見ないで信じなさいとは言われずに、お姿を再びお見せになってから、 見ないで信じる者は幸いとおっしゃいます。私たちは神様の恵みにより、主にお目にかからせて頂きながら、 赦されながら成長させて頂き、ついには見ずとも信じ、信仰の命の中を益々と進み続けるようにと導かれるのです。

 

◇2021年4月25日 ヨハネ20:19-23 「あなたがたをつかわす」 弟子たちの恐れ、それはユダヤ人たちが師を十字架に上げて後、今度は自分たちを迫害するのではないかとの 恐れであったと思います。逮捕され、投獄され、死に引き渡されるのではないか…。先行きの不安です。
自分の望むようにいかず、苦しい方へ、破滅の方へ向かうのではないかとの懸念から、彼らは鍵をしっかりと かけて打ち震えていました。その弟子たちの真ん中に主は立たれ、繰り返し「安かれ」と語られました。
この「安かれ」との主の言葉は何を意味しているのでしょうか。挨拶でしょうか。気休めでしょうか。
主が語られたのは「大丈夫だよ、私がいつもそばにいて守ってあげるからね」とか、「私が敵を滅ぼしてあげよう」 ではなくて、「私はあなた方を遣わす」でした。かくまって、守ってあげるのではなくて、 敵地に遣わすということでした。それが「安かれ」との意味であったということに、驚きます。聖霊を受け、 敵である人々の罪を断罪するのではなくて赦すこと、これが彼らへの使命でした。
神の聖霊を受け、遣わされるということ、それはある意味赦しの権限を受けて権威ある立場としての就役のために 任命されるということでした。主はおびえる子供たちに新たな使命を与え、彼らを強められたのでした。 

 

◇2021年4月18日 ルカ24:36-53 「なぜおじ惑っているのか」
復活節の御言葉は、いつもと変わらずアップダウン、いや、ダウンアップです。
エマオの途上で起こったことを話し合っている時、その所にイエス様が現れました。恐れ驚いてと、 二つの驚きの、それも戦慄したという言葉が重ねられています。彼らは幽霊を見ていると思ったのです。
私たちが状況を見てそこから判断すること、そこにはしばしば間違いが伴います。イエス様は 「なぜおじ惑っているのか」、「どうして心に疑いを起こすのか」と、「なぜ」「どうして」と2回 言われました。惑い、疑い、恐れる時ではないのに、なぜあなたの心の中にそういう思いが、疑いが 立ち上るのか、どうして?と主は問われます。
イエス様はご自分の体をお見せになり、魚を面前で召し上がり、弟子たちを安心させました。
そしていつもの通り、キリストが苦しみを受けて死人のなかからよみがえり、悔い改めが起こり、 救いが世界に広がるという出来事を語り、あなたが証人となるのだ、そのために聖霊が下るのだと語られました。
彼らは大喜びしました。私たちの信仰生涯もいつもかくの如しです。恐れが容易に心を去来し、 御言葉に励まされ、私たちは喜びに満たされ、力を頂いてまた証しに励むのです。

◇2021年4月11日 ルカ24:13-35 「お互いの心が内にもえていたではないか」
主は私たちが途方に暮れ、悲しみ惑う時のために先んじて御言葉を幾度となく語り掛けておられます。
復活の予告しかり、ペテロの否認しかりです。しかし人は、容易に御言葉を忘れてしまいます。
そしていざ困難の状況の中にある時、哀れなまでに無力です。主の復活を「愚かな話(空虚なこと) のように思われた」とありましたが、困難の中、私たちは容易に希望を失ってしまいます。
エマオの途上、ここにも二人の弟子がトボトボと悲しそうに歩いていました。そこにイエス様が すっと伴われますが、彼らにはそれと気付きません。
「彼らの目がさえぎられていた」のです。何ものかに捕らえられるかのように、押しとどめられ、
抑え込まれてしまったかのように、彼らの目は本来の働きをすることが出来なくなっていました。
そして彼らは悲しそうに道端に立ち止まっていたのです。
「ああ、愚かで心の鈍いため…信じられない者たちよ」そしてイエス様がご自身のことを御言葉から 話されるとき、彼らの心が内に燃えました。彼らは新たな力を得、夕暮れの道を喜び勇んで
信仰の友との交わりに向かうのでした。

 

◇2021年4月4日 ルカ24:1-12 「お話になったことを思い出しなさい」
復活の主の御名をあがめます。
私たちは「ハレルヤ」とこの朝高らかに神様をほめたたえますが、2000年前のイースターの朝は 全く状況が異なっていたようです。
女性たちは、かいがいしくイエス様のご遺体に良い香りを添えようと出かけました。
「ところが」イエス様のお体は見当たりません。彼女たちは「途方にくれて」いました。
私たちの人生の中にも、途方に暮れる時があるでしょうか。茫然自失、定かでない、困惑の出来事、 これらは歓迎されるものではありません。
二人の天使が現れました。神様の元から遣わされた二人は、神様のおそばにある輝かしいまばゆい栄光に 輝いていました。そんな光を見たことのない女性たちは心底恐怖に襲われました。   
イースターの朝は、大変な朝でした。しかし天使の言葉はこうでした。イエス様が「あなた方にお話に なったことを思い出しなさい」、主の御言葉を思い出しなさいということだったのです。
私たちの困惑の時、途方に暮れ、恐怖におののく時、それは主の御言葉を思い出すべき時なのです。
女性たちは主のお言葉を思い起こし、すべては主が語られた通りだったと知り、ようやく喜んだのでした。

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