タイトル

説教要旨

過去の説教要旨2021年-2023年

◇2024年3月24日 ルカ23:44-56 「神の国を待ち望んでいた」 イエス様の受難の週となりました。 「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ」 昼の12時。太陽が最も力を発揮するときにも関わらず、その光を失い、全地が暗くなって3時間にも及びました。 イザヤ53章にこうあります。 「彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」 昼の12時から3時といえばもっとも太陽が輝く時です。しかしその光は失われ、闇があたりを包みました。 人は神の子イエス様を、その暴虐なさばきによって、蹂躙によって取り除きました。 「全地は暗くなって」との「暗い」という言葉は、罪とか邪悪という意味をも含みます。 全地は罪と邪悪の暗闇の影響の中に飲み込まれてしまったのでしょうか。昼の光、義の光は暗闇に飲み込まれてしまったのでしょうか。 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1章) 全地が罪と邪悪によって暗い闇に閉ざされていると感じる時があります。私たちの人生の中でもそんな閉塞感に押しつぶされそうになる時があります。しかし神様は光です。イエス様は世に来られた「すべての人を照すまことの光」です。ここに命があります。

 

◇2024年3月17日 ルカ22:54-65 「主は振りむいてペテロを見つめられた」 「顧みる」という言葉があります。これは後ろをふりかえり、気にかけて心配するという意味があります。時に人は自分のことばかり考えて、周囲の人のことを顧みる余裕を失うことがあります。 ペテロはあんなに熱気を込めて、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言いましたが、今日の聖書の箇所では、その舌の根も乾かぬうちに、夜のうちに、完膚なきまでにイエス様のことを見限ってしまいました。 彼は勇敢でした。彼のみが、捕らえられていくイエス様と共に大祭司の庭にまで赴きました。彼はその言葉の通りに勇敢で立派でした。しかしその彼の意気をくじくことが波のように彼を襲いかかります。ある女中は彼を凝視して、言いました。「この人もイエスと一緒にいました」 「イエス様と共にいる者」。これが彼の喜びでした。これが彼の生きる道でした。彼は何もかも捨てて主に従い、その人生は何にも勝る幸せでした。しかし今彼は自分がイエス様と共にいたものであることを否定するのです。 彼は無我夢中に自分の命を困難から救い出すのに必死でした。なりふりをかまっている余裕はありませんでした。それが二度、三度と続きます。私たちも必死になるあまり主を忘れ、主を否定してはいないでしょうか。しかしここに主の顧みがあります。主はどんな困難の中でも私たちにふりかえって私たちを見つめ、愛し続けててくださるのです。 

 

◇2024年3月10日 ルカ22:24-34 「給仕をする者のように」
イエス様はこう語られました。
「あなたがたのために与えるわたしのからだ」、「あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約」、「天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6章)。
罪と死から解き放たれ、私たちを神のものとするイエス様の愛と命の新しいきずなを得て、神の家族のお交わりを頂くのですが、弟子たちの間には空虚な議論がありました。それは誰がより有力で、誰が群れを支配するのかという主導権争いでした。それはサル山で武闘によってボス猿を決めるようなレベルの話でした。
イエス様は「かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」と語られました。
給仕する、待つ、じっと見て、心配して、世話をする。そして仕える。神の子が私たちにそのようにして下さるのです。
外見は良くても中は空っぽであれば、ふるいにかけられた時、吹き飛んでしまいます。
しかし所詮私たちはそのような存在です。しかしそこにイエス様の祈りがあるのです。「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」
この主への恩と感謝から互いの交わりが生まれるのです。


◇2024年3月3日 ルカ22:7-23 「切に望んでいた」
先週は「主がその子ろばをお入り用なのです。ほどいて引いてきなさい」との御言葉を頂きました。主は私たちを必要とされ、私たちをお求めになられ、御子の贖いによって私たちを罪の縄目からほどいてくださいました。
今日もまた権威ある主は「弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます」との言葉を弟子たちに託すと、果たしてその通りに過ぎ越しの食事をする部屋に導かれました。
主は部屋を求めておられます。私たちは主がおとどまりになられる部屋を用意しているでしょうか。門前払いをしてはいないでしょうか。
「過越の小羊をほふるべき除酵祭の日」。過ぎ越しの子羊は屠られなければなりません。主はパンとぶどう酒を取って弟子たちと食事をなさいます。そして私の記念としなさいと言われました。主は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6章)と語られました。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である」と言われました。
主はまさしく過ぎ越しの子羊として、私たちから死を過ぎ来させるためのいけにえとなられ、私たちの命と、血肉となるために死なれました。主は自らを、私たちに命を与えるための糧として、飲み物としてご自分をお捧げになられました。このお方をいつも記念し、お伝えしたく願います。

 

◇2024年2月25日 ルカ19:28-48 「主がお入り用なのです」
先週から受難節に入っております。今日はエルサレム入城の箇所です。ここから最後の1週間が始まります。今日から6回にわたり、主の受難と復活を読み進めてまいりたく思います。
ゼカリヤ9:9にはこうあります。
「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」
「子馬」と訳されていますが、これは「子ろば」のことです。ギリシャ語では子ろばと子馬を区別していませんが、ヘブライ語では「子ろば」と書かれています。馬は足が速く、しばしば軍馬として用いられますが、ろばはその用には役立ちません。しかも子ろばです。これは、平和と主の謙遜の象徴であると考えられます。
「主がお入り用なのです」。これも有名な箇所です。直訳すれば、「このろばの主(所有者)が必要を抱いておられる」ということになります。世界の主であられる神様は、この子ろばの所有者でもあられます。ひと時人にその所有を委ねておられますが、絶対的には主なる神様の所有のもとにあります。それをほどいて、解放して、絶対的な所有者のもとへ連れ行け。それは全て罪につながれている人たち、すなわちすべての人間を罪から解き放って悪の所有のもとから神様のもとへと解き放つための身代わりの業が予兆されているのです。


◇2024年2月18日 1ヨハネ2:18-23 「真理を知っているから」
「子たちよ。あなたがたにこれを書きおくるのは、御名のゆえに、あなたがたの多くの罪がゆるされたからである。
父たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、初めからいますかたを知ったからである。若者たちよ。あなたがたに書きおくるのは、あなたがたが、悪しき者にうち勝ったからである」と、先週の個所ではこのように高らかに語られました。
そのようにして高らかに宣言される清き勝利の交わりを裂く出来事が起こりました。それが反キリストです。
これは終わりの日の出来事であり、「わたしたち」と深くたもとを分かつ出来事でした。
彼らはすべて不真実であり、嘘であり、非現実であり、まやかしと偽造に満ちています。その中に真実はありません。
どうしてそのような一派が「わたしたち」の中から生まれるのか。真理から迷い出て、帰ってこようとしないのか。「わたしたち」との言葉が4回も繰り返されています。そのあまりの頑固さと不真実さには、最初から共にいるものではなかったと結論付ける外はありませんでした。
最後的な、どうしようも取り返しのつかない出来事。キリストと父なる神を否定して、否定して、否定する反キリストの姿に、悲しみが広がります。しかしあなたは油注がれ、聖霊に満たされ、真理を知っている。知っている、知っていると、3回にわたって「知っている」という言葉が繰り返されます。父、御子、御霊のお守りに唯感謝します。

 

◇2024年2月11日 1ヨハネ2:12-17 「永遠にながらえる」
この章の初めにこういう書き出しがありました。「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである」そして彼は読者に目標の設定をしました。
今日の個所にも「あなたがたにこれを書きおくる(おくった)のは…」との語りかけが6回も出てきます。かつても書き送ったが、今も書き送る。あなたがたの多くの罪が赦されたから。あなたがたが初めからいますかたを知ったから。神の言葉があなたがたに宿り、悪しき者に打ち勝ったから。
子たちよ、父たちよ、若者たちよと繰り返し語られます。
初めからいます創造主を知り、その言葉があなたの内に宿るなら、多くの罪が赦され、悪しきものに打ち勝つから、老いも若きも神様のもとに来たりて、そして聞きなさい、世と世にあるものを愛してはならない、世にあるもの、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは世から出たものであり、それらは過ぎ去るから、父の愛の中にあり、父から出るものを望み、神のみ旨を行いなさい、そうすれば父の愛は彼の内にあり、目の向けどころが正しければ父から出た良きものを享受し、世と世にある者は過ぎ去っても、神のみ旨を行う者は永遠に永らえるから、目の付け所に用心しなさい、あなたは神を知り、罪赦され、御言葉により悪しきものに打ち勝ったのだから、その中を進み続けなさいと御言葉は私たちに語りかけます。

 

◇2024年2月4日 1ヨハネ2:7-11 「兄弟を愛する者は、光におる」
古来より人々は、神様のお言いつけにより、自らの罪のためのいけにえとして動物のいのちを捧げ続けてきました。
人は罪ある者であり、神様の前に進み出ることがかなわず、そのために、なだめの供え物を必要としていました。
しかし新しい時代が来て、新しい契約が神様からもたらされました。それはすなわち、「わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリスト」が与えられたということであり、「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」という、この神の御子の供え物が与えられ、一方的に、ただ神様の恵みによって赦しが与えられ、神様との和解がなされたということです。
古い戒め(旧約)は去り、それに勝る新しい契約がもたらされました。新しい契約が、古い契約を全うし、成就し、飲み込んだのです。
それは輝ける神様の愛と恵み、光と愛の世界です。無条件の赦しの愛です。それが真理、それが「やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いている」ということです。そんな赦しの、慈しみの光の中にいながら、どうしてまだ人を赦せないでいるのでしょうか。何の条件もなく赦された私たちが、どうして人に許される条件をたたきつけるのでしょう。神の赦しの愛を本当に知っている人は人をも赦します。そしてその人は罪につまずくことがないのです。

 

◇2024年1月28日 1ヨハネ2:1-6 「その人のうちに、神の愛が真に全うされる」
今日の聖書の個所は前半と後半とに分かれています。まず前半には、結論的なこと、「私たちが罪を犯さないようになること」というゴールが掲げられますが、その出発点として、私たちは「罪を犯す者」であることが述べられます。
その前提の上で「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」、そして「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」ということが語られます。
その贖いと赦しを得たうえで、後半部分に入ります。
3節と4節は同じことが繰り返し語られます。すなわち、主の戒めを守るならば主を知っているということです。
そして5節、主の御言葉を守るということは、「神の愛が真に全うされる」とあります。主を知り、主のおきてを行うのならば、「神の愛が真に全うされ」、それと同時に、私たちが主と共にあることを知るのです。
「知る」ということと、「ある」ということ、赦されて戒めを守るように変えて頂くことと、そうして神の愛が全うされること、そして神にある者は、主イエス様が歩かれたように自らも歩く、これが罪を犯さないようになる道であると今日の聖句は語ります。

 

◇2024年1月21日 1ヨハネ1:5-10 「わたしたちも光の中を歩くならば」
先週からこの第一ヨハネの手紙を読み進めております。
先週の箇所には「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」とありました。
私たちは遠く神様から隔たっていた者でしたが、今はイエス様の十字架による贖いにより、神に近い者とされ、神の子とされ、父なる神様と、愛する御子とのお交わりの中に入れて頂いているということは何と幸いなことでしょうか。
神様とのお交わりに入れられているということは、どういう事でしょうか。
「神は光であって、神には少しの暗いところもない。 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているならわたしたちは偽っている」とありますように、神様は光であって、一点の暗闇もない、そういうお方とお交わりを頂いているということに初めは違和感を感じたのです。私たちの心を探る時、私たちの心の中に一点のやましい所も、身勝手なところも、醜い所もないと決して言い切れないのが私たちであり、そのことのゆえに神様の光の中に出ることに難しさを感じる。連続しない思いが生ずる。そこに恐れず生ずるというのが私たちの偽らざる思いではないでしょうか。
「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」この一点にかかっているのです。ですから私たちは罪を告白できるのです。そしてすべては光にさらされ、きよめられ、私たちは神様との交わりに入れられるのです。

 

◇2024年1月14日 1ヨハネ1:1-4 「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」 ヨハネの福音書の書き出しを思い起こさせるこの1ヨハネの手紙です。 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」 初めからあったもの、世の初めから存在し、神と共にあられたお方が私たちに聞かれるもの、私たちに見られるもの、よく見て触れることが出来るまでに近づかれたということ、そしてそれはいのちの言葉であったということ。 私たちにその交わりが与えられました。それは親しい相互の交わりです。それは父なる神様と、御子イエス・キリストとの交わりです。父なる神様は、子なるキリストを通してご自身を現されました。 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(ヨハネ14:6-7) 父なる神様はこの御子を通してご自身との交わりを私たちにお与えになられました。御子は私たちための尊い命の道であり真理です。迷わぬようにしっかりと見つめましょう。


◇2024年1月7日 イザヤ43:1-5 「恐れるな、あなたはわたしのもの」
新年のご挨拶を申し上げます。元日に能登の地に大きな被害をもたらした大地震が起こり、翌日には羽田空港で大型旅客機が燃え上がる大事故が起こりました。一体今年はどういう年になるのだろうかと不安に思われた方も多くおられたのではないでしょうか。
「一寸先は闇」という言葉のある通り、私たちには一瞬の先に起こる出来事を知ることが出来ません。突如として襲い掛かる災厄。青天の霹靂とは言いますが、気付けば家が濁流に飲み込まれ、火炎が渦巻く火の中水の中に投じられるように、突如として人生の歩みが言いしれない困難の渦中に投げ込まれ、不安と悲しみの中に沈み込み、焼きつき燃やし尽くすような心の痛みに貫かれる時があります。
そんな時、私たちは今日の御言葉を思い起こします。
「あなたを創造された主はこう言われる…恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」
あなた、あなた、あなたと、私たちを呼び続けていて下さるお方がいらっしゃいます。そのお方は天地万物の造り主であり、私たち一人一人をお造りになられた方です。そのお方が、世界のすべてを昔も、今も、これからも統べ治めておられるお方が私たちを「わが子」と呼んで身代わりの御子を捧げて守り抜いて愛し抜いて救い出して下さるのです。その方が「恐れるな」と語られるのです。私たちは贖われ、自由の身とされているのです。

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